そこへ江戸義範の郎党が襲い掛かり、義盛は討ち取られた。子息の義重、義信秀盛も討ち死にした。朝比奈義秀はこの場を脱し、船6艘、兵500騎とともに安房国へ逃れたと伝えられる。朝盛も生き延びて京に逃れた。横山党も潰走して勝敗は決した。

戦後

合戦後、固瀬川(境川)に梟された和田一族の首級は234にのぼった。

北条義時は山内荘、美作守護を手に入れ、大江広元は武蔵国横山荘を与えられた。

義時は義盛に代わり侍所別当を兼任し、それまで兼任していた政所別当と併せて幕府の実権を掌握し、執権体制の確立に努める。

事件の発端となった泉親衡の陰謀事件の逮捕者のうち和田一族以外は直後に釈放されており、北条義時の挑発による事件であったとも言われる。

一方で、さほど有力な御家人でもない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めていることから、親衡の陰謀事件の黒幕は和田義盛、もしくは義盛の子や孫の世代の和田一族とする説もある。

和田氏の一族は追及処罰されて、ほぼ滅亡した。義盛の孫の朝盛は生き残り、承久の乱で宮方として戦っている。

また義盛の弟で、越後奥山荘地頭の和田義茂は北条方に味方し、その子孫は揚北衆中条氏黒川氏へと至る。

乱の3年後の建保4年(1216年)には従四位下に叙し、翌年5月に右京大夫、12月に陸奥守を兼ねて父の官位を超えた。

私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、伊賀の方を継室に迎えて元久2年(1205年)に五男・政村をもうけている。

政村は建保元年(1213年)12月、三浦義村を烏帽子親として元服し、その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。建暦2年(1212年)5月、姫の前所生の次男・朝時が将軍・実朝の怒りをかったため義絶し、駿河国へ蟄居させている。

 

 

10「実朝暗殺事件

承久元年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。

鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社旧社格国幣中社で、現在は神社本庁別表神社

別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東方面で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある。

境内は国の史跡に指定されている。康平6年(1063年)8月に河内国大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。

治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。

建久2年(1191年)に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。

源頼朝鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。

江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。

ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺浅草社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後真が残されている。

明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格。戦後は神社本庁別表神社に列している。

近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社である)。

公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(『尊卑分脈』など)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』など)。