元久元年(1204年)、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。

元久2年(1205年)、この重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。

このとき、時政の息子である北条義時は、重忠とは友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く(『吾妻鏡』)。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。

しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった(畠山重忠の乱)。

牧氏事件

同年閏7月、時政と牧の方は実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする。

政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招いた。

19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある。

幕府内で完全に孤立無援になった時政と牧の方は7月20日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった。

閏7月26日には朝雅も京都守護として滞在していた京で幕府の命によって殺害された。

この事件に関しては『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計、『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だったとしている。

畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される。

その後と影響

時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保3年(1215年)、腫物のため北条の地で死去した。

また、牧の方も夫の死後は朝雅の元妻で公卿の権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。そして、北条氏の第2代執権には義時が就任(ただし、承元3年(1209年)就任説もある)、義時のもとで北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのである。

ただし、この事件は、後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての内紛の先駆けにもなった。

 

8「時政伊豆に追放」

『吾妻鏡』では時政が後妻の牧の方の讒言により人望の厚かった畠山重忠を謀殺して御家人たちの反感を買い、義時は重忠が謀反など起こすはずがないと重忠討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であると見られている(吾妻鏡#畠山重忠参照)。

ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。武蔵国の最有力在庁であった重忠排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、元久元年(1204年)に乱の引き金となった北条本家の後継者・政範の急死があり、政範亡き後、娘婿・平賀朝雅を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったと考えられる。

元久2年(1205年7月、姉・政子と協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て時政を伊豆国に追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた。

三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国武将鎌倉幕府の有力御家人桓武平氏良文三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。

幕府創設期[編集]

治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に当たり、父・義澄は東胤頼とともに決断を促したともされ(『吾妻鏡』治承4年6月27日条)、史料にはみえないものの義村も当然参加していたものとされている。

寿永元年(1182年)には、頼朝の妻政子の安産祈願の祈祷のため、安房『東條庤明神』へ奉幣使として遣わされた(『吾妻鏡』寿永元年8月11日条 )。

建久元年(1190年)に右兵衛尉に任官される。

正治元年(1199年)の梶原景時の変では中心的役割を果たし、元久2年 (1205年)の畠山重忠の乱でも討伐に参加。その後、無実の重忠を陥れたとして、稲毛重成榛谷重朝を殺害した。