その首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をしたと述べた。時政は黙って引き下がった。この日の夕方、鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、榛谷重朝父子が重忠を陥れた首謀者として三浦義村らによって殺害された。

7月8日、少年の将軍源実朝に代わり、尼御台・北条政子の命により、畠山氏の所領は勲功として重忠を討った武士たちに与えられ、同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられている。

7月19日、この事件をきっかけに時政は失脚し、牧の方と共に子の義時・政子姉弟によって鎌倉を追放され、同26日、京にいた平賀朝雅は義時の命によって誅殺された(牧氏事件)。

残された重忠の所領は時政の前妻の娘である重忠の妻に安堵され、妻は足利義純に再嫁して義純が畠山氏の名跡を継いだ事により、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡した。

乱の意味

武蔵国は相模国と並んで主要な将軍知行国であり、頼朝の時代には源氏門葉平賀義信国司を務め、秩父氏の総領である留守所職は河越重頼であった。

河越重頼と平賀義信の妻は頼朝の乳母比企尼次女三女で、武蔵国の郡司である比企氏の家督は比企尼の甥比企能員が継承し、武蔵国は頼朝の縁者によって治められていた。

河越重頼が源義経の謀反に連座して誅された後は、畠山重忠が留守所職となり、平賀義信の後の武蔵国司は子の朝雅が引き継いでいた。

朝雅は後鳥羽上皇の信任厚く、上皇と舅の時政と牧の方の威光を受けて京都守護知行国主となり、将軍並の処遇となって権勢を強めていた。

比企能員の変で滅ぼされた有力豪族比企氏の縁戚児玉党など、武蔵国には比企氏と繋がりをもつ者が多く、比企の跡を勢力下に収めようとした時政の武蔵進出は、武蔵武士団の棟梁である重忠の勢力圏への進入であり、比企の乱後の戦後処理を巡って時政と重忠は対立する関係となっていたのである。

明月記元久元年(1204年)正月18日条によると、都で「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し山中に隠れた。大江広元がすでに殺されたとの事だ。」という風聞が流れ、広元の縁者がそのデマに騒ぎ荷物を運び出す騒動になるなど、両者の対立は周知の事となっていた。

乱の背景には武蔵国の支配を巡り、留守所畠山氏と国司朝雅を背景とした時政との対立があった。

結果

北条義時は牧の方の娘婿である朝雅を担ぐ父時政を切り捨てる事によって、無実の重忠を討ったという御家人達の憎しみの矛先をかわし、混乱に乗じて朝雅と秩父一族の稲毛重成・榛谷重朝ら有力者を一掃して武蔵国の掌握に成功した。以降、武蔵国は代々北条得宗家の支配下に置かれ、執権政治の安定化後は執権・連署が「武蔵守」・「相模守」を占める事例が増加する。北条家内では梶原景時、比企能員など強力な政敵の排除には団結していたが、先妻の子義時・政子らと後妻牧の方との間には以前から亀の前事件などの諍いがあり、共通の敵が居なくなった事、牧の方所生唯一の男子で北条本家の後継者と目されていた政範の死によって、両者の対立が表面化していた。

畠山の乱に端を発した牧氏事件で時政を追放したことにより、幕府は時政の専制政治から義時・政子姉弟主導による寡頭体制によって専制政治が継続された。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書『吾妻鏡』において、梶原景時が悪人と断じられているのとは対照的に、重忠は賛美した記事が目立っている。

重忠討伐の際、重忠を擁護したという義時は、その後重忠の遺児や縁者を庇護し畠山氏の所領を与えたなどという形跡はなく、畠山氏の所領は政子によって重忠を討った者や政子の女房に配分されている。

義時・政子の姉妹である重忠の妻には畠山氏本領が与えられ、その妻は北条氏の縁戚足利義純に再嫁し、足利義純が畠山氏の名跡を継承した事により、重忠の血筋は断絶している。

その後出家していた重忠の末子重慶は乱の8年後、建保元年(1213年)9月に謀反の疑いを受けて殺害されている。

その際に3代将軍源実朝は「重忠本より過ちなくして誅を被る」と述べている。『吾妻鏡』における義時の重忠擁護、重忠の過剰な賛美記事は、父時政を追放し、武蔵の英雄を滅ぼした義時(得宗家)弁護のための作為と考えられている。ただし、近年の研究では北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要があるとする説も出されている。

現在、横浜市旭区、相鉄鶴ケ峰駅の近くには畠山重忠の終焉の地として石碑が建てられている。

牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。

発端

正治元年(1199年)に頼朝が死去した後、頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を一段と高めてゆく。

そして遂には建仁3年(1203年)、頼朝の後継者の源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となる。