7「畠山重忠の乱と牧氏事件」

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日1205年7月10日)、武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。

鎌倉幕府創設者である初代将軍源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き正治2年(1200年)の梶原景時の変建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は14歳の3代将軍源実朝を擁する北条時政が握っていた。

畠山重忠は秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する留守所検校職の地位にあり、その武勇と人望により頼朝の時代には常に先陣を務め、その死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人であった。

また時政の前妻の娘婿であり、梶原景時の変、比企能員の変ではいずれも北条氏側に協力していた。

武蔵国は将軍によって国司が推挙される関東御分国(将軍家知行国)の一つであり、数多の武士団が存在し、鎌倉防衛の戦略上の要地であった。

この頃の武蔵国司は、時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅であり、比企能員の変の翌月の建仁3年(1203年)10月、朝雅は京都守護のため上洛し、朝雅の上洛後に時政が将軍実朝の命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙の行政権を掌握していた。

平賀朝雅と重保の争い

元久元年(1204年11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。

その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなり、周囲の取りなしで事は収まったが、これが後に大きな争いの火種となる。翌5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方鍾愛の子・政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。

翌元久2年(1205年4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成が舅の時政に呼ばれ、郎党を引き連れて鎌倉へやって来た。

何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎは静まり5月3日には大半の御家人が帰国した。

6月21日、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる。

時政が子の義時時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したという。

22日早朝、鎌倉は大きな騒ぎとなり、軍兵が謀反人を誅するべく由比ヶ浜へ先を争って走った。同じ秩父氏の稲毛入道に招かれて鎌倉にいた重保も郎従3人と共に由比ヶ浜へ駆けつけると、時政の意を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませる。自分が謀反人とされている事に気づいた重保は奮戦したが、多勢に無勢で郎党共々殺害された。時政の命により、鎌倉へ向かっている重忠を道中で誅殺するべく大軍が派遣された。

大手の大将軍北条義時に従ったのは先陣・後陣に葛西清重堺常秀大須賀胤信国分胤通相馬義胤東重胤、そのほか足利義氏小山朝政三浦義村三浦胤義長沼宗政結城朝光宇都宮頼綱八田知重安達景盛中条家長苅田義季狩野介入道宇佐見祐茂波多野忠綱松田有経土屋宗光河越重時河越重員江戸忠重・渋河武者所・小野寺秀通下河辺行平薗田成朝、ならびに大井氏品河氏春日部氏潮田氏鹿島氏小栗氏行方氏児玉党横山党金子党村山党らが従い、関戸(多摩市関戸)の大将は北条時房和田義盛として鎌倉を出陣した。

二俣川の戦い

重忠は鎌倉に騒ぎがあると聞き6月19日菅谷館を出発しており、22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇した。

重忠の弟長野重清信濃国六郎重宗奥州へ行っており、重忠が率いていたのは二男の重秀、郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清以下130~40騎程度に過ぎなかった。今朝重保が殺された事、自分に追討軍が差し向けられた事を二俣川で初めて知った重忠は、館へ退くことはせず潔く戦う事が武士の本懐であるとして大軍を迎え撃つ決断を下す。

そこへかつての旧友安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入し、義時の大軍と少数の兵で応戦する重忠主従との激戦が4時間余り繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれ、首級を取られた(享年42)。

重忠の死を知った重秀以下は自害した(重秀・享年23)。『愚管抄』では重忠は自害したとしている。

23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、重忠の一族は出払っていて小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実であった。