鎌倉幕府による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、景時弾劾状に北条時政義時の名は見られないが、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。

この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除のはじめとされる。

京都側の記録

玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。(正月27日条)さらに景時が逐電したと26日に関東より京へ飛脚が到来し、(正月29日条)また景時は上洛を企てたが駿河国高橋において上下向の武士と土人等によって一族全て討たれたらしいとの話を記している。さらに、景時の討伐は当然のことで、悪行を重ねての滅亡は趙高に等しいとも書き記している。

明月記』(正治2年正月29日条)は、景時が頼家の勘当を蒙り逐電したため全国警戒すべきことが沙汰され、また院にも申し入れられたため世間はすこぶる物騒がしいと記している。さらに噂では景時は既に討たれたらしいが詳しいことは判らないとも書いている。

愚管抄』では、比企能員の変と頼家の暗殺についての記述に続けて、時間をさかのぼり梶原景時の変についても記述している。

それによると自らを「一ノ郎党」と思っていた景時は頼家の乳母でもあったため、自分だけは特別だと考えて他の郎党を侮る態度をとった。

そのため彼らに訴えられてさらに討たれそうになったため、国を出て京へ上ろうとしたが途上で討たれ、「鎌倉ノ本體ノ武士」である梶原一族はみな滅亡したと記されている。

そのうえで景時を死なせたことは頼家の失策であると評し、頼家殺害と景時滅亡の因果関係を強く指摘している。

 

建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放する(比企能員の変)。

 

6「比企能員の乱」

比企能員の変(ひきよしかずのへん)は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年9月2日鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。

鎌倉幕府初代将軍である源頼朝の死後、18歳の嫡男頼家が跡を継ぐが、3か月で訴訟の裁決権を止められ、十三人の合議制がしかれて将軍独裁は停止された。合議制成立の数か月後、頼朝の死から1年後に将軍側近であった梶原景時が御家人らの糾弾を受けて失脚し、一族とともに滅ぼされる(梶原景時の変)。侍所別当であり、将軍権力を行使する立場として御家人達に影響力をもつ忠臣景時を失った事は、将軍頼家に大きな打撃となる。

景時亡き後、頼家を支える存在として残されたのは、頼家の乳母父であり、舅でもある比企能員であった。

比企氏は頼朝の流人時代を支えた比企尼の一族で、比企尼の養子として比企氏の家督を継いだ能員は頼朝の信任を受け、嫡男頼家の乳母父となる。

また能員の娘若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡を産み、将軍家外戚として権勢を強めていた。

この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母北条政子(尼御台)とその父時政である。時政は頼家の後ろ楯となる勢力からは外されており、代替わりとともに将軍外戚の地位から一御家人の立場に転落していたのである。

吾妻鏡の描く事件の経過

以下は鎌倉幕府末期に得宗専制の立場から編纂された史書『吾妻鏡』の描く事件の経過である。

建仁3年(1203年)1月2日:頼家の嫡男一幡鶴岡八幡宮に参詣した。巫女を介して託宣があり、「今年中に関東で事件が起こるであろう。若君が家督を継いではならない。崖の上の木はその根がすでに枯れている。人々はこれに気付かず、梢が緑になるのを待っている」と不吉の前兆を述べる。

2月4日:千幡(実朝)の鶴岡八幡宮参詣が行われ、北条義時結城朝光が補助した。

3月:頼家の体調不良あり。

5月19日:頼家の命により、阿野全成が謀反の疑いで大倉御所に監禁される。武田信光が生け捕り、宇都宮朝業に預けられる。

翌20日、頼家が政子に使者比企時員を使わし、全成の妻である阿波局の身柄の引き渡しを要求するが拒否される。全成は25日に常陸国へ配流となり、6月23日、頼家の命により八田知家が全成を誅殺した。7月16日には京にいた全成の子頼全も誅殺される。

5月末から6月にかけて狩猟に出かけた頼家が、仁田忠常らに洞穴を探索させて神罰に触れたという記事が続く。