西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた。これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。

   「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老高島正澄も殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。

   その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛は勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。

   この後、勝久と幸盛は宇喜多勢に攻められていったん撤退し、直家はこれを上月十郎景貞という人物に守らせたが再び秀吉軍によって落城し、景貞は敗走中に自刃したと伝わっている。

   こうして秀吉は、織田方と毛利・宇喜多方の緩衝地帯の要素の濃かった播磨一国をわずか2か月で手中に収めた。

   この年の年末に近江国に帰った秀吉は、播磨・但馬平定の褒賞として、主君信長より自慢の茶器「乙御前の釜」を賜っている。

   別所長治・荒木村重の離反 /天正6年

   天正6年(1578年)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。

   4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、を設けて何重にも城を取り囲んだ。

   秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄信孝を派遣した。先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった。この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。

   これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。

   天正6年2月、三木城主別所長治が本願寺・毛利の側に寝返り、同年10月には荒木村重も本願寺法主顕如と盟約を結んで信長に離反した。調略手腕で短期間のうちに制した播磨であったが、長治の離反におよんで同調者が続出し、秀吉は敵国のなかに身を置く様相を呈するに至った。

   長治は秀吉が黒田孝高と共に中国進攻戦の先導役として最も期待した武将の1人であった。だが『別所長治記』によれば、長治離反の理由を、加古川城(兵庫県加古川市)での軍議に参席した長治の名代の意見が容れられなかったために、不満をもった家臣が長治に謀反をすすめたからであると説明している[35]

   これらの動きに呼応して毛利水軍の600余艘が本願寺への大量の兵糧米を積載して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩九鬼嘉隆に6艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7月に和泉のに廻航させて海上封鎖にあたらせていた。鉄甲船には、大砲3門が搭載されていたという。

   11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い)。

   なお、これに先だつ3月13日には信長包囲網の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城新潟県上越市)で死去している。

   天台宗別格本山書写山圓教寺摩尼殿

   いっぽう陸上では、3月末に別所長治とのあいだで三木合戦がはじまり、長治に呼応する播磨国内の諸勢力とのあいだで戦闘に入った。

   秀吉は播磨屈指の名刹として知られていた書写山圓教寺(姫路市)を陣所と定め、先に派遣されていた信忠らの援軍を得てただちに三木城を包囲、4月には野口城の戦い(加古川市)で長井政重を、6月末には神吉城の戦い(加古川市)で神吉頼定を討った。

   5月には尼子救援のため兵をいったん上月城に差し向けて熊見川(千種川)では毛利勢と戦ったが、信長は6月の中国方面での戦況報告を受けて上月城救援を諦め、三木城攻めを優先すべきことを秀吉に厳命した。

   この間、4月には、小寺政職が小寺氏と別所氏は元来ともに赤松氏の流れを汲む同族であると称して美嚢郡飾東郡印南郡などの一族を呼集して御着城に立てこもった。小寺家の家老であった黒田孝高は家臣の多くを味方につけて秀吉にしたがい、7月、政職はこれに敗れて逃走した。