二十一、「秀吉と利休」

 千利休(せん の りきゅう、)大永二年(1522~1591)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。

 幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

広く知られた利休の名は、天正十三年(1585)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。

 考案者は、大林宗套笑嶺宗訢古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。

 宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の十七年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は(いみな)の「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文四年(1535)四月二十八日から天文十三年(1544)二月二十七日以前に宗易と号したと考えられる。

 後に宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の二年前、天正十一年(1583)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

 号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。

 和泉国商家の生まれ。家業納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、十七歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。

 堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。

 本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正十三年(1585)秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。

 天正十五年(1587)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

 秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

 天正十九年(1591)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年七十歳 。

 切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。

 利休が死の前日に作ったとされる遺偈(ゆいげ)が残っている。

*人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)

*吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

*提ル我得具足の一ッ太刀(ひっさぐルわがえぐそくのひとツたち)

*今此時ぞ天に抛 (いまこのときぞてんになげうつ)

意味・わが人生七十年「えい」この知恵の剣で祖師(一宗一派の開祖)も仏も皆なくし全てのものから解脱してしまえ・上手く使えるこの太刀を引っげて]

”今まさに我が身を天に放つのだ”利休忌は現在、三月二十七日および三月二十八日に大二十八で行われている。