「小田原開城へ」

 五月九日には後北条氏と同盟を結んでいた奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請に応じて本拠から小田原へと向かった。

 開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。

 六月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる。

 包囲中、戦らしい戦と言えば、太田氏房が蒲生勢に夜襲をかけたのが後北条氏側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と六月二十五日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった(それ以外は、互いの陣から鉄砲を射掛けるぐらいのものであったという)。

さらに包囲中の五月二十七日には堀秀政が陣没するなど、優勢とはいえ暗いムードが漂い始めた。

 そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。四月八日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、さらに一門で玉縄城主の北条氏勝も弟(繁広氏成)らと共に秀吉方へ「走入」って降伏した。

 六月初旬には家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。

 六月には、松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを政晴の弟の松田直秀が氏直に報告して発覚、政晴は氏直により成敗された。

 また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。 

 さらに六月二十三日に北方隊が落とした八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条氏側の士気低下に拍車をかけ、六月二十六日には石垣山一夜城が完成したことも後北条氏側に打撃をもたらした。

 このとき、後北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は月二回ほど行われていた後北条氏における定例重役会議であった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

 六月に入ると、氏房、氏規、氏直側近が家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講話交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、この頃には後北条領は家康に与えられることになっており、伊豆は四月中旬には家康の領国化が始まっていた。

 鉢形城は六月十四日に氏邦が出家する形で開城となり、韮山城も6月24日に開城した。八王子城の落城に続いて鉢形城・韮山城と津久井城も開城し、氏規が秀吉の元に出仕したため、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした。

 七月五日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。

 この小田原征伐に関して、豊臣氏と北条氏との間では、戦いについての認識で大きなズレがあった。「関八州の太守」を自称する北条氏にとって、この戦いは「天下」を賭けた「公儀」と「公儀」の戦いであった。

 しかし、天皇を推戴し、「天道」に従い、「日本国」の唯一の「公儀」として政治を執り行っている豊臣政権にとって、この戦いは「西国征伐」と同じ「征伐」であり、「公儀」を蔑み、「天道」に背き、「勅命」に従わないものを処罰する「成敗」に過ぎなかった。

 戦後、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁に開戦の責があるものとして切腹を命じた。

 七月七日から九日にかけて片桐且元脇坂安治榊原康政の三人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。七月九日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。

 七月十一日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。その氏規と当主・氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。

 一方、小田原城開城後、忍城は氏長の降伏を受けて使者が送られ七月十六日に開城した。これにより、戦国大名としての後北条氏は滅亡した。

 秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。

 

※石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

永禄三年(1560)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。

※直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。以下のように諸説あるが、これらを立証する信憑性のある史料は確認されていない。越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。