「岩槻城」(岩付城)

天正十八年(1590)五月十九日から二十二日まで続いた。

岩槻城攻撃軍の編成 計二万人・浅野長政 約三千人・本多忠勝

●岩槻城守備軍(北条氏房(太田氏房)の配下。宿老の伊達房実など) 約二千人

●氏房の留守軍

 城方は城主の氏房が小田原城に籠城したため主力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが衆寡敵せず、籠城側は兵のほぼ半数である一千余人の死傷者を出したのち降伏した。

「鉢形城」

天正十八年(1590)五月十四日から六月十四日まで続いた。

鉢形城攻撃軍の編成 約三万五千人・前田利家 一万八千人・上杉景勝 一万人・浅野長政 三千人・木村重茲 二千三百人・真田昌幸 三千人・(大道寺政繁)先に松井田城開城で降伏し、道案内となっていた。

●鉢形城守備軍(藤田氏邦(北条氏邦)) 約三千人

 城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立、氏邦は大規模な野戦を主張したが容れられず、自城に帰還して籠城した。

 彼我の差は十倍以上であったが家臣らと籠城戦を戦った。約一か月の戦いの末、開城した。鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許され、利家の領国内の能登津向(今の七尾)に知行一千石を得た。

「忍城の戦い」

天正十八年(1590)六月5五から七月十七日まで続いた。

忍城攻撃軍の編成 二〜五万人・石田三成 一千五百人・直江兼続 三千人・真田昌幸信繁 三千人

●忍城守備軍(成田氏長の配下) 五百余の兵と城下の民合計三千・成田泰季成田長親甲斐姫

 忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。

 当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。

  攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。

 秀吉は三成に対し、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。

 しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であったため、水攻めの効果は薄かった。その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。

 結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは七月に入っても続くことになる。鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。

 その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城開城により降伏した氏長の説得により、開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

「八王子城の戦い」

天正十八年(1590)六月二十三日。

八王子城攻撃軍の編成 総勢一万五千人・上杉景勝前田利家真田昌幸

●八王子城守備軍(北条氏照の配下) 総勢三千人

 八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約一万五千人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵中山家範近藤綱秀ら約三千人が立てこもっていたとされる。

 先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。