●韮山城守備軍 約三千六百四十人(城主・北条氏規

韮山城では攻撃側の十分の一の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。

 籠城方は四ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康を交渉役として派遣し、領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。

「下田城」

下田城攻撃軍の編成 約一万人(水軍 長宗我部元親加藤嘉明脇坂安治九鬼嘉隆吉見広頼(毛利家))

●下田城守備軍 約六百人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠

清水康英は手兵六百余で約五十日に渡って籠城抵抗した後、開城した。 後北条氏配下の伊豆水軍の最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上を封鎖した。

※佐竹 義重(さたけ よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将常陸国戦国大名佐竹氏第十八代当主。北条氏と関東の覇権を巡って争い、佐竹氏の全盛期を築き上げた。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。天文十六年(1547)、常陸国の戦国大名で佐竹氏第17代当主・佐竹義昭の子として誕生。

 

※北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名相模国戦国大名小田原城主。後北条氏の第五代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。

※堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名天文二十二年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄八年(1565)に十三歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。十六歳で、室町幕府十五代将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼福富秀勝・大津長昌・矢部家定長谷川秀一万見重元らがいる。

 

「玉縄城」

先に山中城の落城の際に脱出し、落ち延びた北条氏勝はこれを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重繁広らに説得され、手勢七百騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。

 この際に小田原城の北を迂回し玉縄に戻り、すなわち小田原籠城軍に加わらなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。

  その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、四月二十一日に降伏開城。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。

「小田原城」

 小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山城を築いた。また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。

「北方軍」(北国勢・信州勢など)

 北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木常林(相木昌朝の子)、伴野信番(元・佐久野沢城主)を信濃国に潜入させ、佐久軍の白岩城で挙兵させたが、これは松平康国が派遣され即座に鎮圧されている。また碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。

 前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻した。松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、先方の真田勢(真田信幸)と激戦になり、総じて兵力で圧倒的に劣勢であったため、松井田城に退却し籠城した。

「松井田城」

天正十八年(1590)三月二十八日から四月二十日まで続いた。

松井田城攻撃軍の編成 約三万五千人

○西部(追手)上杉景勝 約一万人

○東部(搦手)前田利家前田利長 約一万八千人

○北部 約七千人(松平康国康勝 約四千人、真田信幸 約三千人)