豊臣側の主だった大名は以下の通り。
○主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、石田三成、宮部継潤、堀秀政、池田輝政、浅野長政、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正、福島正則。約十七万。
○水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約一万。
推定総計約二十一万。
後北条側の主だった諸将
●小田原城:北条氏直、北条氏政、北条氏照、成田氏長、垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政尭
●その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)
豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。
一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も五万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。
主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。
野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。
「小田原城包囲北条支城攻略」
天正十八年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着し29日に進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。
山中城
○山中城攻撃軍の編成 合計六万七千八百人
右軍 計一万八千三百人(池田輝政 二千五百人、木村重茲二千八百人、長谷川秀一三千六百人、堀秀政 八千七百人、丹羽長重 七百人)
中軍 計一万九千五百人(豊臣秀次 一万七千五百人。家老中村一氏など)
左軍 徳川家康 三万人
●山中城守備軍 四千人(城主 松田康長、援軍 北条氏勝、援軍間宮康俊、松田康郷、蔭山氏広等)
秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた。
山中城では間宮康俊勢により攻め手の一柳直末が討死したものの、小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの城は豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城し、主将の松田康長は北条氏勝兄弟を逃したのち、手勢を率いて玉砕した。間宮康俊ら多くの将兵が討ち取られた。
その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に鷹之巣城を落とした。足柄城は佐野氏忠(北条氏忠)が守備していたが、山中城の陥落を知ると氏忠は主な兵を率いて城を退出して小田原城に合流したため、翌日に徳川麾下の井伊直政隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、四月一日に落城した。経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。
「韮山城」
天正十八年(1590)三月二十九日から六月二十四日まで続いた。
○韮山城攻撃軍の編成 合計四万四千十人
○右軍 計八千四百人蒲生氏郷 四千人、稲葉貞通 一千二百人)
○中軍 計九千七百人(筒井定次 一千五百人、生駒親正 二千二百人、蜂須賀家政 二千五百人、福島正則 一千八百人、戸田勝隆 一千七百人)
○左軍 計九千人(細川忠興 二千七百人、森忠政 二千百人、中川秀政 二千人、山崎片家・岡本良勝等 二千二百人)
○旗本 織田信雄 一万七千人