十九、「九州平定」

 この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。

 戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。

 そのなかから、薩摩の島津氏が日向伊東氏肥後相良氏阿蘇氏肥前有馬氏龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。

 豊後大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国北陸山陽山陰四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。

 これを受け、関白となった秀吉は、天正十三年(1585)十月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。

 しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。

 この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。

 さらに島津義久は天正十四年(1586)一月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した。

 三月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。

島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。天正十四年四月五日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。

※大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名キリシタン大名大友氏二十一代当主。宗麟の法号で知られている。大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。

 秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元吉川元春小早川隆景や、宮部継潤などの中国の大名、あるいは長宗我部元親十河存保などの四国の大名を用いようとした。

 秀吉が天正十四年四月十日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている。

 

※真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名甲斐国武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の二代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏徳川氏上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で二度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。

※石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

永禄三年(1560)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。

※直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」。以下のように諸説あるが、これらを立証する信憑性のある史料は確認されていない。越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。