松平慶永・春嶽(まつだいらよしなが)(1828―1890)

幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(靭負(ゆきえ))、鈴木主税らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を推すなど、島津斉彬(薩摩藩)、伊達宗城(宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(のち14代将軍家茂)の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭はじめ、先の大名たちとともに謹慎処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。大政奉還・王政復古で、新政府の議定職の一人に任命されたが、戊辰内乱から、慶喜への厳しい処分が進む政界の方向に反発、1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)、続いて大蔵卿兼務を最後に、1870年7月、42歳でいっさいの公職を退いた。以後、自らの体験を歴史的に回顧した『逸事史補』など多くの著述をまとめた。明治23年6月、62歳で病没した。