北条義時(1163年~71224年)鎌倉幕府。二代執権1205年(元久2)~1224年(元仁元)在職。父は北条時政、母は伊東祐親の妹。江馬小四郎と称す。1180年(治承4)8月、源頼朝の挙兵に参加。石橋山の戦で兄宗時戦死して、嫡子の地位を得る。1184年(元暦元)源範頼軍に従って西国に遠征、翌年正月豊後国芦谷浦の合戦で功を頼朝から賞された。1189年(文治5)奥州合戦に従軍。この頃より頼朝の信任を得、頼朝の死後1199年(正治元)十三人宿老会議の一員となる。1203年(建仁3)9月比企氏の乱では幕府軍を指揮し、直後に仁田忠常を追討する。1205年(元久2)には父の命で畠山忠重を滅ぼしたが、7月には継母牧の方の陰謀を未然に防ぎ、姉政子とともに父夫妻を伊豆に流して執権に就任した。執権政治を強化し大豪族抑圧政策をとり、1213年(建保元)には泉親衡の乱に続き和田義盛の乱を招いたが、これに勝利し侍所別当を兼任。従四位下右京権大夫から陸奥守となる。1219年(承久元)正月第三代将軍実朝を暗殺の黒幕とする説もある。その後頼朝政治を墨守して後鳥羽上皇と対立し承久の乱を招くが、これも圧勝し京都に六波羅探題を設置し、幕府の管理下に置き、全国的政権となった。