「歴史の回想・承平天慶の乱」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電書籍
平将門の乱・平安前期、関東に起こった内乱。下総・常陸の一族間に私闘を繰り返した平将門が939年(天慶2)11月常陸国府を焼き払ってのち、下野・上野の国府を次々襲って国司を追い払って、自ら新皇を称し、坂東諸国に受領を任命するなどしたもので、古代末期の本格的な反乱。藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱と言われている。はじめは女論(女性をめぐる争い)により931年(承平元)叔父で舅の良兼と争う。935年に叔父国香や前常陸国野本などの合戦で殺害し、ために族長の伯父良兼の率いる一族の軍と闘うこととなり、源護の告発で中央政府の召還を受けた。将門は上京し釈明して許され帰郷したが、なお一族と国香の貞盛を信濃国国分寺付近に追って合戦し、摂政藤原忠平より召喚を受けている。938年(天慶元)秋頃、武蔵国権守興世王らの徴税攻勢に抵抗する足立郡司武蔵武芝に加担し、939年2月頃、武力調停で興世王と和解したが、武蔵介源経基は自分が謀殺と通報した。同年11月常陸国司らに常陸国府軍闘い国府を占拠、略奪。興世王の「一国を討つ責めは軽くはない。同じことなら坂東を慮掠して様子をみよう」の言をいれ、12月に下野・上野と次々に国府に襲い掛かり手中に収めた。上野国府で坂東諸国に受領を徐目を行い、また神がかりした昌妓巫女の「八幡大菩薩菅原道真の霊が朕の位を将門に授ける」との宣託により新皇に即位した「将門記」は記す。また下総の邸何に王城を建て大臣以下百官を任じ、内印・外印の寸法を定めたと記すが、定かではない。しかし弟の平将武らを伊豆国守などに任じて坂東を制圧、新たな政権樹立を企てた可能性がある。939年12月下旬、豊前国・播磨国の国司を襲撃した藤原純友は、4月に発生した出羽国の俘囚の乱や、将門の常陸国襲撃の報せを当然耳にしたであろう。将門が純友の国司襲撃事件を知ったか定かではないが、相前後して940年初頭よリ坂東諸国の制圧を拡大させ、地域での利害衝突はなお激化していった。そこで政府は、年末に発生した純友国司襲撃事件に対して、都の防備を固め、諸国追補使を、ついで追補凶賊使を、任命し瀬戸内海に送り込んだ。他方、将門を討伐する抜きんでた殊勲には破格の恩賞を定め、また民部卿藤原忠文を征夷大将軍右衛門督に任じ討伐の決意を固め、2月8日に初遣のための節刀賞与が行われた。恩賞賜与の決定は将門と対立する武装勢力をいたく励まし、2月に下野国押領使藤原秀郷、平貞盛らは大軍を持って将門軍と合戦を繰り返している。春の農事で従類・伴類の集まらない将門軍の隙をつき奇襲により、将門は2月14日に下総国猿島で敗死した。以降は恩賞を預かるために残党がりが行われた。藤原秀郷には破格の従四位下下野守に、貞盛には従五位下に任じられ、謀反を密告した源経基はすでに従五位下に叙され、また藤原純友追討に功により中央・地方の官を歴任していった。経基は清和源氏、秀郷は下野国小山・結城