「源頼朝の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
源頼朝(1147年建久3年・~1199年)在職。源義朝の三男。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の女。1158年(保元3)初めて皇后権少進に任官する。藤原信頼と義朝が結んで、藤原通憲(信西)・平清盛に対決した平治の乱で初陣。乱では当初清盛不在の虚を衝いて信西を討った信頼方が優勢であったが、後白河天皇が熊野参詣から戻った清盛方についたことによって形成は逆転。義朝一党は、再起を期して東国に逃れようとしたが失敗し、途中で義朝とはぐれた頼朝は美濃で平氏方捕らわれ京都に送られた。本来なら斬られるべきところを、伊豆に流罪になったが、これが清盛の義母池禅尼の口添えによるものと伝えらえる。伊豆で流人生活を送る間に、現地の豪族北条時政の女(北条政子)と結婚。1180年(治承4)後白河法皇の皇子以仁王が平氏打倒の令旨が伝えらえた。これを呼応を促す形で頼朝も8月に挙兵した。初戦に伊豆の目代にあった山木判官兼隆を討ったのち石橋山の戦いに敗れて、逃れて安房国へ渡り、下総の千葉常胤や上総介平広常らの援助を得て東国の武士たちに糾合し、10月源氏源氏ゆかりに居を構えた。その後、頼朝追討のために大軍で東下した平維盛軍沿いを富士川の戦で退けたが、そのまま上洛をする道を選ばず常陸国の佐竹氏を討ち、上野・下野の兵力を従えるなど、基盤としての東国を固める。1183年(寿永2)7月、平氏の都落ちと入れ替わって境に入った木曾義仲が平氏追討に手間取り、後白河はじめ院の近臣勢力とも融和できずにいるのを知った頼朝は、後白河に接近し宣旨を得て、東国支配権を承認された。これに起こった義仲は後白河に対する実力行使に及ぶと、弟の源範頼にと義経を代官として派遣し義仲を排除した。さらに範頼・義経には西国から摂津まで失地を回復しつつあった平氏軍を攻撃を命じ、一の谷の戦で勝利する。その後、平家没官領を手中に収め、門注所・公文所を設置する等東国経営のここを割いた。敗走した平氏は讃岐の屋島に本拠を設けたため、頼朝は範頼にその追討を命じて山陽道を西進させ、範朝の戦果が思わしくないと見るや頼朝の意向を背いて任官した義経にその兵を授けて平氏の殲滅を図った。その結果、1185年(文治元)2月に屋島の戦や壇ノ浦の戦で平氏は滅亡する。しかし平氏撃滅の功労者の義経と頼朝とは、後白河の離間策もあって不和が表面化し。義経は縁故の奥州藤原に頼ると、それの理由に宣旨を待たず奥州藤原氏追悼の大軍を発し、1189年9月藤原泰衡らを討って義経も討たれた。事態が収拾されて頼朝は後白河と会見したが、双方に齟齬があって後白河が没してから頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。