「上杉一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
 中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。
 重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。
 頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。
 貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。
天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(謙信)を頼り越後に逃れ、永禄4年(1561)景虎(謙信)に関東管領職と上杉姓を譲る。謙信は越後の盟主になり頻繁に関東や信濃・北陸に出兵した。武田軍と五度の川中島の戦い繰り返したが決せず、その後領土拡大し、豊臣政権の五大老に就任し往時には120万石を有した大名であったが、謙信の没後は2人の養子、景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)が対立し、景勝が景虎を自殺させ(御館の乱)謙信の後を継いだ。
景勝は豊臣秀吉に従属し、慶長3年(1598)国替えを命じられ合図若松に120万石を領し、五大老の一人となった。しかし関ケ原の合戦に敗れたために出羽米沢30万石に減封される。米沢藩は上杉氏が13代続いたが、寛文4年(1664)15万石の減封、戊辰戦争には新政府に対抗したために、4万石に減封され、廃藩置県に至る。