戦争の実態を国民に知らせない、戦争を覆い隠していく。こうしたことが特定秘密保護法のもとですすめられる危険があります。

この先の日本はどうなってしまうのでしょうか。「自民党改憲草案」を見ると、自民党の人たちが目指している国家のあり方が端的に示されていると言えます。権力者にとって都合の悪い「人権」は認めない、自衛隊を国防軍にして戦争も進めていく。およそ立憲民主主義国家には程遠い「国の形」が示されています。この草案に対して、明治憲法に戻ってしまうという批判の声を聞きますが、私はこれは正しくないと考えます。むしろ、明治憲法よりもひどい状況に落ちてしまうというのが正しいのではないでしょうか。

明治時代は少なくとも権力をしばる「立憲主義」を前提としての議論になっていましたが、それすら否定するのが自民党の改憲草案であって、明治憲法よりもひどいではないかと指摘されています。いま、そういう状況に突き進もうとしているのです。

たとえ閣議決定したとしても、それだけでは実際上の効果はありません。関連する法律をいろいろと改正する必要があります。
個別法をつぎつぎ改正していっても法律同士の揺らぎが生じてしまいますから、憲法9条を根底から否定する総本山的な法律として、「国家安全保障基本法」も準備されていました。
これは「平和憲法破壊基本法」ともいうべき法律です。

じつは20年前に防衛庁(当時)内部で検討していた国家安全保障基本法の試案というものがあります。今回の自民党が準備している法案はかなりの部分をそれに倣ってつくられています。石破茂幹事長は最近の安全保障環境の変化に応じて、国家安全保障基本法が必要だとして、あたかも最近つくった法案であるかのように言いますが、もとは20年前に防衛庁内部でつくった試案をかなり模倣しているわけです。

教育の現場から、愛国心教育をとおして「国防」の体制をつくっていこうというねらいが見えます。

国家安全保障基本法を頂点に違憲の法律がつぎつぎつくられ、軍事力を国家の中心にすえた新しい法体系、つまり憲法9条を否定する新しい法体系を一気につくろうというのが自民党のもともとのねらいでした。しかし、世論の動向からすぐさま国家安全保障基本法を成立させるのは困難と見ているのか、現時点では個別法改正を優先させる方向に転換しています。

厳密に言えば、集団的自衛権というロジックにすらしばられずに、無制限に自衛隊が海外に出ていくことを容認するのが、この国家安全保障基本法です。

これを認めてしまうと、憲法9条はなきに等しい。憲法9条があるのにこのような法律がまかり通れば、そもそも憲法に意味がないことになってしまいます。「日本は立憲国家としての立ち位置を捨てたのですか?」と問われる事態です。人の支配、つまり時の権力者が国民の付託によって政権をとった以上はなんでもできる社会になっていくわけです。憲法のしばりがまったくないことになります。こうした社会につくり変えようとしているのが、いますすめられていることです。

国家安全保障基本法の第1のねらいが、集団的自衛権行使を可能とするなど、無限定に自衛隊の海外派兵を可能とし、アメリカの戦争に正面から参戦できるようにする点にあることは明らかです。

憲法学者の長谷部恭男氏は、「憲法解釈の変更は、憲法という外交交渉上の最後の抵抗手段を自分で破壊し、日本の国益を深刻に傷つける」と指摘されていますが、まさにそのとおりだと思います。

まさに、安倍政権の究極のねらいは、明文解釈を経ることなく、憲法9条を否定することにあると言えるでしょう。その結果、軍事力中心の新たな法体系が作り出されることになり、日本の国の形は根本から変容し、国民の人権も大きく制約を受けることになるに違いありません。そして、アメリカにさらに従属した国家となってしまいかねません。

「見捨てられの恐怖」により「巻き込まれの危険」に陥るという、「同盟のジレンマ」を食い止めていたのが9条だったわけですが、この歯止めがなくなることで、アメリカの戦争に際限なく巻き込まれていきかねません。

日本はもともと、日米安保条約がある時点で、「普通の国」ではないのです。もし、9条を空文化し、集団的自衛権行使可能となれば、「普通の国」どころか、アメリカの先兵となりつづける運命を選ぶことになり、世界から信頼を失うことになるでしょう。                                             
                                                             (完)