職員さんの話しと配られた資料で説明します。平成28・29年度の発掘調査で、天守台は低部で西辺約68×北辺約61mであることが確認でき、大きさがほぼ確定 これにより、他の城と比較しても日本一大きい(広い)天守台であることが分かった。(日本一高い天守台だった江戸城の天守台の大きさは45×41m 駿府城の天守台の方が1.5倍大きい。)
江戸時代の天守台絵図(「駿府城御本丸御天主台跡之図」静岡県立中央図書館蔵)によれば、堀の水際で西辺約66m、北辺約60mであったと記録されており、絵図とほぼ合うことになります。
また、高さが地上(現在より1m下)から約12m、堀の水際から約19mと記録されており、現在は天守台上部が取り壊されいるため確認はできないが、この高さも信憑性が高いと言える。(北辺で現在、高いところが5.1m今より3倍)
天守台内部の石垣の構造は外側から築石→裏込(栗石(拳大の川原石)層)→直径20~40㎝程度の裏栗巻石→盛土層となっていて栗石層では、築石と直行する仕切りの石列が約4間(約8m)間隔で発見。(特に天守台北辺で確認)石垣を築く作業の単位を示すものと考えられる。
天守台絵図にも残る井戸が発見。 天守台中央から北東の位置に、石組の井戸を発見。内径約1.8mの円形で、四角く加工された石(間知石)で組まれていた。 深さは現存深度は3.8mを越える。江戸時代の城郭における天守台の井戸は、全国的に珍しい(江戸城、浜松城、名古屋城、松江城で確認) 籠城用のものか?←対豊臣に備え?
江戸時代初めの石垣
天守台南辺は、本丸と接続している様子が確認。特に本丸側の石垣は、地面の下すぐで発見され、約5.8mの高さで残っていることが分かった。天守台の石垣と比較して本丸側の石はやや小ぶり。 天守台北辺は、特に東側にかけて高い石垣が残っていて、本丸側も天守台北辺も、自然石を割って平らな一面を作った程度の加工で、石の間に小さな間詰石を丁寧に入れた打ち込み接と呼ばれる積み方で慶長期の大修築時のものと考えられる。一方で、古い石垣には赤い石や割れた石が多く、火災や地震の影響により劣化している状態が窺える。
出土品
堀の中から大量の瓦のほか、建築木材が出土(建物の一部か?)盛土内からは慶長期以前、豊臣家臣の中村一氏が在城時に使用したと考えられる金箔瓦が10点以上見つかった。
以上。

天守台北辺石垣
古い積み方の打ち込み接が見えます。
赤い部分は火災の跡。

天守台南辺と本丸側の石垣

井戸跡

出土した建築木材

金箔瓦(発掘情報館きゃっしるにて展示中)