前回、那須与一先生をリスペクトする話を載せたのですが、今回は源義経公に関するエピソードを中心にお話したいと思います。

 

 屋島の戦いの主戦場は当然屋島(香川県高松市)なのですが、我らが故郷阿波徳島も若干関係があるのです。


              屋島の戦いにおける義経軍の進撃ルート (wikipediaより)



ごちょうのブログ-義経の進撃


 


 嵐の海を渡って阿波国勝浦に上陸した源義経率いる一軍は、そこから屋島を目指しました。


 船が着いた場所の名前が「勝浦」であることを地元の者から聞いた義経は、戦に向かった先で「”勝つ”浦」に到着するとは縁起が良いと喜んだと伝えられてます


 義経は、勝浦から屋島までわずか1日少々の時間で移動しています。勝浦から屋島への移動は交通網の発達した現代でも、ちょっとした距離ですが、移動だけでなく桜間城という地元平家方武士の館を強襲して、難なく勝利しています。さすが戦の天才! Σ(・ω・ノ)ノ


 勝浦は、現在の徳島県小松島市。

勝浦周辺のエリアには義経にまつわる史跡が多くあり、ちょっとした観光名所になっています。


 「小松島市HP」

http://www.city.komatsushima.tokushima.jp/soshiki/16/yoshitsune-dream-road.html



 代表的なものを挙げると・・・



画像は芝生町宮ノ前の「旗山」の義経公騎馬像


(HPから引用の紹介文)

 義経が勢揃いして士気を高揚するために、田野と芝生の境にある小島(当時)の山頂へ源氏の白旗を立て軍陣の標記としたことからこの 山を旗山と呼ぶ。
 また、この地には像高6.7mの源義経公之像(騎馬像では日本一)が 雄壮な姿で山頂東端にそびえている。 


 旗山の様子は側を通る国道55号からもよく見えます。

(前に取り上げた、JA産直市「みはらしの丘あいさい広場」の近くでもあります)


ごちょうのブログ-義経騎馬像


つづいてはコレ


   徳島名物 「 竹 ち く わ 」


ごちょうのブログ-竹ちくわ



 阿波弁やったら「ちっか」と発音するんでよ~ (‐^▽^‐)


※ これにあやかったチッカーズという地元ゆるキャラもあったりします (;^_^A


 勝浦の浜に上陸した義経公が、近隣の漁師達が魚のすり身を竹に巻きつけ焼き上げたものを食べているのを見て、一つ所望したというエピソードがあります。焼きたての竹ちくわ、さぞ美味しかったでしょう。




 ところで、今回のブログのタイトル。

訳あって、義経公ディスリスペクトとしてみました。

戦の天才、悲劇の英雄として知られる源義経。その有名さは日本史上の人物でもトップレベル。

創作では、勇猛にして仁愛に溢れた清らかで優雅な青年武将という書かれ方をすることが多いようです。


 これって本当にそうなんでしょうか・・・?

屋島の戦いにからんだ一連の義経関係のエピソードでは、戦の天才という点はともかく上のような高潔な人物像を疑わせるようなものが見受けられるのですが。 


(1)四国に渡るため、摂津(大阪)の港から出発しようとした義経、あえて暴風雨で荒れている海に船出しようとします。風が強い方が船の速度が増し到着時間が短くなる。天候が悪い方が四国の平家勢力の目を欺きやすいというのが理由。なんというアグレッシブ!

当然船乗りは嫌がるのですが、郎党に命じ彼らを”弓で脅して船出を強行”。

結果は大成功!”通常の3倍の速さで”目的地の四国に上陸することができたのでした。


(2)屋島の内裏に奇襲をかける際、小勢であることを悟られないため、”周辺の民家に火をかける偽装を行う”

これも結果は大成功!屋島の内裏にいた平家の総大将平宗盛は義経の策にはまり、あわてて内裏を放棄して海上の船に本営を移すのでした。


(3)阿波と讃岐を隔てる大阪峠(徳島県板野郡板野町大坂と香川県東かがわ市の県境に位置する峠。標高270m。大坂越ともいう)を越えて屋島を目指す義経一行。

峠越えの直前に金泉寺(徳島県板野郡板野町にあるお寺。四国88ヶ所の第3番札所)を立ち寄りました。

ちょうど観音講(お寺のイベント)で近くの住民が集まり、ご馳走を食べていた最中だったのですが、彼らは義経達、武装した武者の軍勢がやってくるのを見て、驚いて逃げ去ってしまいます。


”義経達はそのご馳走を食べて、峠越えの腹ごしらえをすることができたのでした。”


(4)屋島の戦いの最中、那須与一は見事扇の的を射落とすことに成功します。

「敵ながら天晴れ」と感嘆し、興に乗った平家の老武者が扇のあった下で舞を舞い始めました。

なぜか義経は、”与一にこの武者を射るように命じます”。

一体なにが気に触ったんだろう?  (((( ;°Д°))))

(安徳天皇と三種の神器を逃してしまったんでイライラしてたんだろうか?)


 あんな小さい扇にすら命中させた与一にとって、人一人射ることなどわけもないこと。

射抜かれた老武者は、船底に逆さになって倒れます。

この様子を見ていたあるものは、「あ、射た(あ、射ちゃったよ!)」と言い、あるものは「心無いことを(ひどいことをするもんだ)」と言ったのでした。

 当然、平家軍はこの暴挙に怒り狂い、夕刻を迎えてしばしの休憩状態になっていた戦いは再開され、血みどろの様相を呈するのでした。


(5)屋島の戦いでなく壇ノ浦でのエピソードですが一つ紹介を。

 前半、平家水軍は潮の流れにのって攻めかけ有利に戦いを展開します。追い込まれた源氏勢。そこで大将の義経がとった戦法は、”敵船の漕ぎ手を射る”ように全軍に命令することでした。

当時の戦いの掟では、馬や非戦闘員である漕ぎ手を直接の殺傷目的にすることは避けるのが了解事項となっていたのですが、承知の上での命令です。

敵船の動きを封じるためとも、敵軍を怒らせてより激しい矢戦に持ち込むことによって矢の欠乏を狙ったのが真の目的だったとも言われています。

まあ、結果は大成功で源氏は大勝利、敗れた平家は滅亡してしまうんですけどね。


 義経関係のエピソードといえば他にも、弓流しとか壇ノ浦後の建礼門院徳子との怪しい話とか、色々あるんですけども、とりあえずこの辺で。


 歴史上の軍事的天才は、みな合理的思考と卓越した決断力の持ち主であり、義経ももちろんその一人ですが、仁愛溢れる高潔な人柄という点は違うんじゃないか・・・と感じているごちょうでした。 

(´・ω・`)


「火の鳥 乱世編」の義経なんかは案外現実の義経に近かったりして・・・





オマケネタ 


 平景清(左) と クラウザーさん(右)って似てるよね


(ネットでそういう指摘があり、言われてハっ! ∑(゚Д゚) とした次第)


ごちょうのブログ-景清とクラウザー