「…ただね。」
ふと思い出したようにAさんが言いました。
「この頃、研究所に研究用のアドラーがあったから、そのエンジンを使って作ったものだったかもしれないね。」
「…アドラー、…ですか…。」
「…アドラー、…ですか…。」
研究所に研究用のアドラーがあった、というお話は、以前私も聞いたことがありました。
時期はちょうどC70のエンジンを使ったスポーツタイプCS71を開発している頃のことで、この頃研究所にあったアドラーとは、そのCS71のベンチマークとして入手された、アップマフラーのMB250Sだった、ということのようなのです。
時期はちょうどC70のエンジンを使ったスポーツタイプCS71を開発している頃のことで、この頃研究所にあったアドラーとは、そのCS71のベンチマークとして入手された、アップマフラーのMB250Sだった、ということのようなのです。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/59/09/j/o0800057014589474815.jpg?caw=800)
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/b0/24/j/o0800058014589474822.jpg?caw=800)
MB250SとCS71
(そうか、アドラーか…。)
今から約半世紀前の浅間で、この写真に写っている方々は何を考え、何を求めてこのマシンといっしょにグリッドに並んでいたのだろうか?
Aさんにそう言われ、私は改めて写真を眺めて「うーん…」と考えを巡らせていました。
今から約半世紀前の浅間で、この写真に写っている方々は何を考え、何を求めてこのマシンといっしょにグリッドに並んでいたのだろうか?
Aさんにそう言われ、私は改めて写真を眺めて「うーん…」と考えを巡らせていました。
と、Aさんが言います。
「それって、『雷電』でしょ?他に名前が書いてあるのがありますかね?」
「…車にですか?」
「そう。」
「…車にですか?」
「そう。」
Aさんの問いの意味が分からず、やや戸惑いながら私は答えを返しました。
「えっと…。これが多分親父だと思うんですけど…。」
と写真の一台を指差し、
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/8b/40/j/o1024075514589474834.jpg?caw=800)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/8b/40/j/o1024075514589474834.jpg?caw=800)
「これ多分、『海風』って書いてあるんじゃないかと思うんですが…。」
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/d2/42/j/o0590037714589474840.jpg?caw=800)
そう私は答えました。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190916/16/hikofukuda/d2/42/j/o0590037714589474840.jpg?caw=800)
そう私は答えました。
「ああ、やっぱりそうだね。」
その私の答えにAさんはニコッと笑い、
「この頃、みんな自分の車に戦闘機の名前を付けてたんだよね。『雷電』とか『隼』とか『紫電』とか。」
(…戦闘機?)
私は「あっ」と思いました。
私は「あっ」と思いました。
「…これって…、戦闘機の名前だったんですか?」
「そうですよ。」
やや驚いた様子で尋ねた私に、「何が意外なのか?」といった風でAさんは平然と答えました。
「そうですよ。」
やや驚いた様子で尋ねた私に、「何が意外なのか?」といった風でAさんは平然と答えました。
「…あはは、そうか。なるほど、そうだったんですね。」
これは私の勘違い。
なぜ島崎さんのマシンに「雷電」の名前が入れられていたか。
その理由を私は、ちょっと失礼ながら島崎さんが「やや小太りの体型だったから」なのだとばかり思っていました。
昔、相撲界に「雷電」というしこ名の力士がいたのだそうで、島崎さんはやや小太りの自分の体型を自虐気味に「雷電」というネームを敢えて自分のマシンに入れていたのだ、と私は理解していたのです。
が、考えてみれば昭和10年前後に生まれた親父の世代の人々にとって、「強さ」と「速さ」、更に「命知らず」を象徴する存在と言えば、それはまだ戦時中だった少年の頃に憧れた、大空を自在に駆け巡る「戦闘機」だったのですね。
なぜ島崎さんのマシンに「雷電」の名前が入れられていたか。
その理由を私は、ちょっと失礼ながら島崎さんが「やや小太りの体型だったから」なのだとばかり思っていました。
昔、相撲界に「雷電」というしこ名の力士がいたのだそうで、島崎さんはやや小太りの自分の体型を自虐気味に「雷電」というネームを敢えて自分のマシンに入れていたのだ、と私は理解していたのです。
が、考えてみれば昭和10年前後に生まれた親父の世代の人々にとって、「強さ」と「速さ」、更に「命知らず」を象徴する存在と言えば、それはまだ戦時中だった少年の頃に憧れた、大空を自在に駆け巡る「戦闘機」だったのですね。
「大戦に敗れた日本を、グランプリという新たな競争を通じて世界に飛躍させる」
スピードクラブの方々には、そんな本田宗一郎社長の描いた遠大な戦略の最前線に立ち、命を賭して戦っている、という強い自負と高い誇りがあったのだと思います。
そんな自らを「特攻隊」になぞらえ、自らが操るマシンに、かつて欧米を畏怖せしめた「戦闘機」の名前を冠する…。
そんな自らを「特攻隊」になぞらえ、自らが操るマシンに、かつて欧米を畏怖せしめた「戦闘機」の名前を冠する…。
なるほど。
戦争があった時代を知らない私達の世代には、なかなか思い及ばない心境ですが…。
でも…、分かります。
言われてみれば、実に良く。
でも…、分かります。
言われてみれば、実に良く。
親父の世代の方々が、世界的な奇跡と言われた日本の高度成長を迎える前の時代に、どんなことを考えていたのか。
分かった事実は些細なことなのかもしれませんけれど、その分かった事実が世代による理解の限界を埋めてくれ、僅かながらも当時の方々を突き動かした原動力が何者だったのかを、垣間見せてくれたような気がしたものでした。
分かった事実は些細なことなのかもしれませんけれど、その分かった事実が世代による理解の限界を埋めてくれ、僅かながらも当時の方々を突き動かした原動力が何者だったのかを、垣間見せてくれたような気がしたものでした。