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当初、写真に写っているのが誰と誰なのか、まったく手掛かりはありませんでした。
お名前が分かったのは一番右、ゴーグルを外して顔の見えている秋山さんだけで、その他の方を特定する材料など何もありません。
そんな状態でまず出来ることはと言えば、「見たところどう見えるか?」です。

何の手掛かりもないながらも写真をじっくり見て行くと、秋山さんと並んで最前列にいる方、比較的身長も高く、体格もがっちりした印象を受けます。
比較的身長が高く、がっちりした体格…という特徴を元に記憶を辿ると、

「…これは鈴木義一さんじゃないだろうか?」

そう最初に思い当たりました。

鈴木義一さんはホンダに入社する前、出身校である浜松工業高等学校在籍中にボクシングと円盤投げの選手として高校総体に出場したこともあるほどのスポーツマンであったといいます。
ちなみに、私の親父も同じ浜松工業高等学校の卒業生で、義一さんとは同じ高校の後輩に当ります。
親父は昭和9年、義一さんは昭和6年の生まれ、ということで高校の在籍期間はちょうど入れ違いだった筈ですが、高校総体に出場経験がある、となれば、入社前から親父は義一さんの名前を知っていたかもしれないですね。
スピードクラブのメンバーで並んだ写真などを拝見すると義一さん、他の方と比較して身長は高く、肩幅が広くて胸板も厚い、いわゆる「マッチョ」な体格であったらしい事が伺えます。

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1957年浅間のレース前
左から
鈴木義一、島崎貞夫、佐藤市郎、本田宗一郎、水沼平二、福田貞夫、谷口尚己、秋山邦彦、小沢三郎、佐藤進
左端の義一さん、いかにもアスリート然とした、がっしりした体格だったことが伺えます

加えて、当時スピードクラブの中で義一さんは序列が一番上だった筈、ということを考えてみると、シーンの最後でトップを取り、ゴールラインを切る役回りだった秋山さんを除くメンバーの中で、一番前に陣取っている、というのも「さもありなん」と頷けるように思えます。

ちなみに、なぜ秋山さんがライダーの中で一番中心となる「優勝者」の配役になったのか、と申しますと、父君の時芳さんがこの映画のレースシーンの技術監督をしていたから、というのがその背景なのだそうでして…。

「折角だから、秋ちゃんやったらいいじゃん」

そんな、ほんのちょっとした話のノリから、急遽秋山さんにその役回りが回ってきたのだとか。
その役回りだからこそあの事故が起きてしまったのだ、と考えてしまうと、これもなんとも皮肉なお話、ということになってしまうのですが…。
まあ、それはさておいて。

鈴木義一さんがこの隊列の一番前に陣取っていたのだ、とすると、「この隊列は、当時のクラブ内の序列に従ったものだったのではないか?」という推理が頭をもたげて来ることになります。
映画の内容がTTレースに初参戦する本田をモチーフにしたもの、という背景を考えれば、1959年のTTレース初参戦時のメンバーは、恐らくこの隊列の中にいたはず、と私には思えました。

1959年のTTレース参戦時のライダーといえば、鈴木義一、鈴木淳三、秋山邦彦、谷口尚己、田中楨助の5名。
ただ、たった5人でレースシーン、といっても迫力に欠けるでしょうから、もっと人数はいたんじゃないでしょうか。
恐らく、TTレース参戦のメンバーに選抜されていたこの5名のほかにも、それに次ぐポジションにある方が動員されていたものと考えてよいでしょう。

TTレース初参戦に選抜された方々に次ぐクラブ内の主力メンバーというと、先の5名の方に加えて翌1960年に技術研究所が設立された際、レーサー試験室に配属されることになった福田貞夫、島崎貞夫、佐藤幸男、田中健二郎、藤井璋美の5名。
高橋国光、北野元のお二人はまだホンダに入って来ていませんでした(ご両人がホンダに入ったのは、この年8月の浅間火山レース後でした)から、恐らくこの10名のうちの誰かがこの写真に写っていると考えて良いのではないか。

と、こんな背景を考えながら積み上げた推理を、箱根大観山のレストハウス前で私はAさんにぶつけてみたのですね。