(弟の言っていることの方が正しいのかも知れぬ…)
と、そうは思いながらも、ひょっとすると私の説の方が正しい、と証明してくれるような事実がそこにないか?
そう思いながら車のハンドルを握り、私が事故現場だったのではないか?と考えた、ターンパイク箱根伊豆連絡線手前にある②の右コーナーを目指します。

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もし、撮影隊が待機していたゴール地点が現在のターンパイク本線終点、大観山レストハウスのところに設定されていたのだとしたら、弟の言っていた大観山山頂を取り巻くように走っている右コーナーが事故現場だった、という説に、反論の余地はない様に思われます。
ここより芦ノ湖寄りの地点で事故が起こっていたとしたなら、ゴール地点で待機している撮影隊は、大観山山頂に視界を遮られて、事故が起こった場所を直接目視していなかったことになるでしょう。
となれば、当然「撮影隊の目の前で起こった」という表現の仕方にはならなかった筈です。

では、事故現場はそこだったのか?
私には素直にそうは思えませんでした。
フォトレタッチソフトとエクセルを駆使して分析した、事故直後と思われる写真の影の向きとの相違に、やはり釈然としないものを感じていたからです。

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「あの写真が事故直後に撮影されたものとは限らないじゃないか。」

写真が物語る状況に当てはまる場所を芦ノ湖から大観山レストハウスに至る椿ラインの中に見つけられなかった私は、この弟の意見に強い反論を返すことができませんでした。
しかしながら、
「やはり事故の現場検証と言うのは事故直後に行われるもので、『後日改めて』というケースはないのではないのだろうか?」
そう思う気持ちも、完全にぬぐい去ることができません。
これは果たして「客観的に見て」なのか、それとも「意地で」なのか?
自分でも分からないまま、すでに何度も検証のために訪れ、すっかり走り慣れてしまった箱根の峠道をひた走ります。

芦ノ湖大観ICから走ること数分、やがて私が目星を付けた、椿ラインでは数少ない「東から西へ登る坂道の右コーナー」に到着します。

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ここであれば、私が分析した「東から西に登る坂道」という条件にも、「1959年4月1日午後2時頃、太陽はほぼ南西の方向にあった」という条件にも当てはまります。
更に、進行方向右側に石垣が続いていたという秋山呆榮さんの手記とも符合しますし、この石垣の上から事故現場を撮影したとすれば、あんな感じの写真になるに相違ありません。
(ここが現場だった、と証明できる決定的な証拠がないものだろうか?)
それが私の一縷の望みでした。

ここが事故現場だった、と結論づけるに至った前提は、「レースコースのゴール地点は現在の大観山レストハウス付近ではなく、ターンパイク箱根伊豆連絡線と椿ラインの分岐点付近だった」というものでした。
地図で見る限りではこのコーナーと分岐点付近の距離は近く、もしゴール地点からここで起こった事故が目視できたとすれば、ことによると「目の前」という表現がされることがないこともないかもしれない、と、考えられました。

しかし…

現場付近で車を停め、この右コーナーまで徒歩で近付いた途端、全身の力が抜けてゆくのを禁じ得ませんでした。

「崖だ…。」

このコーナーのアウト側、即ち、現場写真の道路向う側に人が立っているはずの場所は切り立った崖になっていて、とても人が立てるような場所ではないのです。

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(こりゃ、だめだ。決定的だ…。)

最後の望みも断たれたことを理解した私は、その場で頭を抱え、天を仰ぎました。