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1959年の浅間から、60年の欧州遠征までの間に、参戦するマシンの開発がどんな具合に進んで行ったか、限られた資料の範囲内ですが、推測してみましょう。

一番上の写真は、恐らく59年の浅間が終了した後、8月後半から9月前半にかけて撮影されたものだと思われます。
場所は、荒川河川敷のテストコースです。
右端の佐藤幸男さんがかぶっている麦わら帽子と、背景に見えるイモ畑の葉の茂り方からして、まだ日差しの強い時期だったことがわかります。

写っている方は左から、福田貞夫、田中健二郎、中村正義、佐藤幸男の4氏。
中村さんは、スピードクラブの事務局をしていらっしゃった方で、60年遠征の後半組に同行されていたメンバーの一人でした。
恐らく、マネージャー兼メカニックという役割だったのだろうと思います。

ここに高橋国光さんが加わると、60年遠征の後半組のライダーはすべて揃うことになりますので、恐らく、60年の欧州遠征の後半組メンバーを集めて行ったプレスリリースか、社内報の取材のために撮られた写真なのでしょう。
国光さんはこの時、恐らくまだホンダに入って来ていなかったのだと思います。

並んでいるマシンは、右が浅間で優勝したRC160、左は翌60年のシーズン参戦に向けて開発中のRC143です。
浅間に出場したRC160は、6月に行われたマン島TTからメンバーが帰国した後に開発を開始した、と伝えられています。
本当だとするなら、約2ヶ月という驚異的なスピードで設計・試作が行われたことになります。
が、これはちょっと怪しいでしょう。

そもそも、60年シーズン用の250ccレーサーは、125cc2気筒を横に繋げた4気筒にすれば、125ccの倍の出力が得られるだろう、という見通しの元に開発が開始されたものでした。
そして、この250cc4気筒、開発のごく初期には2バルブだったものが、途中で4バルブに変更された経緯がある、と言います。
ということは、最初の設計は2バルブのRC141(あるいはそれ以前の140)を元に行われたが、4バルブのRC142が完成したのに伴って4バルブに変更された、ということを意味しているのだと思います。

つまり、マン島から帰国後に突貫で設計・試作されたというのは「4バルブの」4気筒エンジンであって、それ以前にすでに基本となる4気筒の設計が(あるいは試作も)あったのだと考えられます。

RC160は、浅間のレースの後、もう一度試作が行われたといいます。
2枚目の写真が多分それで、時期はまたがる親父の格好からして、恐らく初秋です。
59年の東京モーターショーに参考出品された、というカウル付きのRC160は、多分この2回目の試作で作られたものなのでしょう。

モーターショーに出品されたRC160は、リアのスプロケットなどがダートである浅間を走った時の物と同じだった、といいますから、2回目の試作の主な目的はカウルの開発で、エンジンや駆動系にはほとんど手が入らなかったのだと思います。
これがモーターショーに出ている頃には、すでに次の161の開発が進んでいたのでしょうしね。

ちなみに、翌年のRC161もそうですがこのカウル、ずいぶんウインドシールドが立って、かなり全高が高い印象を受けます。
パッケージングがあまり良くなくて、ライディングポジションが高かった、ということももちろんあるのでしょうが、主な理由は、当時は走行中はタンクに伏せて空気抵抗を抑える、という発想があまりなかったからであるようです。

ヨーロッパのレースを終えて帰国したライダーたちは、ヨーロッパのライダーたちがストレートばかりかコーナーでも、カウルにもぐりこむような低い姿勢でマシンを操作しているのに驚いた、という話が残っています。
3枚目の写真は60年のドイツで3位表彰台を獲得した田中健二郎さんのものですが、写真を見ると、確かにかなり高い姿勢でマシンを操作していることが分かります。
このポジションを基本と捉えれば、この高いカウルの意味も分かろうというものです。