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前年の58年、オートレースで無敵と言われた田中健二郎さんを迎え入れたことを皮切りに、次第にホンダは「社員レーサーを養成して戦う」といった姿勢から、「外部から速いライダーを招聘してでも勝つ」といった具合に、方針転換の兆しを見せ始めていました。

60年欧州遠征のメンバー選考には、これがよりはっきりとあらわれ始めます。
59年の浅間でホンダワークスを市販車で蹴散らした北野さんと、クラブマン350ccクラスで優勝し、500ccクラスで最後まで伊藤史朗さんとトップを争った高橋国光さんが、ホンダワークスに招き入れられることになりました。

この時、淳三さんは何を思ったでしょう。
常にスピードクラブの社員ライダーを中心として回っていたワークスチームの体制が変わり、お前では役不足だ、と暗に会社から告げられているのだ、とは思わなかったでしょうか。

それまでもスピードクラブには、結果を残せなければ、次第にクラブに顔を出しにくくなるようなムードが常にあった、といいます。
非情な様ですが、これは、野球の社会人リーグなどでも、恐らく同じでしょう。
周囲を見回し、「もう俺はここに残るべき人間ではない」と考えたとしても、不思議はありません。

これに加え、浅間を初めとしたダートのレースばかり走っていたところから、マン島の舗装路でのレースを初めて走ってみて、そのスピードの違いに、「こんなことを繰り返していたら、命がいくつあっても足りない」と思ったということも、あったのではないかと思います。
事実、私の親父も、初めてヨーロッパのサーキットを走ってみて、「自分はこの世界で一流にはなれないと思った」という意味のことを、話していたことがあったといいます。

今、こうして淳三さんの戦歴を見直してみても、この時引退を考えなければならないような翳りがあったとは思われません。
しかし、どこでレーサーとしてのキャリアにピリオドを打つかは、本人にしか決められない事です。

現役引退後しばらくして、淳三さんはホンダを退社し、独立して事業を始められたそうです。
そして、その後はスピードクラブのOB会にも一度も顔を出すこともなく、現在ではどこで何をしているのか、クラブで同僚だった方々にもわからないのだそうです。

日本のレース史に重要な位置を占めながら、そのキャリアは完全に自分の記憶の中だけに封印してしまう道を選んだのでしょう。
まさに誇り高く、生真面目な方なのに違いありません。
淳三さん、今はどこでどうされているのでしょうか。

主な戦績:
昭和30年 富士登山レース250cc5位、浅間高原レース125cc20位、浅間高原レース500cc優勝
昭和32年 浅間火山レース125ccリタイヤ、浅間火山レース250ccリタイヤ
昭和33年 浅間クラブマン国際リタイヤ
昭和34年 マン島TT125cc11位、浅間火山レース125cc2位

写真:
上:59年浅間・北軽井沢のホンダ宿舎前
左から、佐藤幸男、谷口尚己、渥美實、福田貞夫、田中楨助、鈴木義一、島崎貞夫、田中健二郎、鈴木淳三の各氏
中:59年浅間・耐久125ccクラス表彰式。2-4位で浮かない顔のホンダワークス
左から、福田貞夫(4位)、鈴木淳三(2位)、北野元(1位)、藤井璋美(3位)の各氏
下:59年浅間・レース後の親父(左)と淳三さん
ちょっとヘコんでいる淳三さんの様子が伺えます