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以前にもこのブログに書きましたが、前年1959年にマン島TTウルトラライトクラス(125cc)にスポットで参戦したホンダは、翌年の1960年から、本格的にシリーズでチャンピオンシップを争う体制を取ることになりました。
その初年度の1960年、親父は、グランプリ後半3戦(ドイツ、アイルランド、イタリア)を走るライダーとして、所属するホンダスピードクラブから選抜されています。

そこで、家に残っている写真から、この1960年の参戦時の様子を、時系列で追いかけてみようと思います。

話の本題に入る前に、その前年からの流れを、簡単におさらいしましょう。
1959年、ホンダは初めてマン島TTのウルトラライトクラスに、スポットで参戦しました。
この時のメンバーは、
監督;河島喜好
マネージャー:飯田佳孝
ライダー:鈴木義一、鈴木淳三、谷口尚己、田中楨助、ビル・ハント
メカニック:関口久一、廣田俊二
以上の9名。
なお、ビル・ハントは、前年58年の浅間クラブマンレース国際クラスで優勝した在日アメリカ人で、渡英の際の通訳・折衝係の役目もありました。

マシンは、義一さん、淳三さん、谷口さんが4バルブのRC142、楨助さんとビル・ハントが2バルブのRC141でした。
当初マン島へ持ち込まれたマシンはすべて2バルブのRC141でしたが、義一さん以下3名のマシンは、後に空輸されてきた4バルブのヘッドに換装され、型式をRC142として記録に残されています。
まあ、あまり深く考える事もないのでしょうけれど、本当は「RC141改」とか、後の言い方なら「2RC141」とでも呼んだ方が、より正しいのではないかな、と、私自身は思ってしまいます。(笑)

結果は、谷口さん6位、義一さん7位、楨助さん8位、淳三さん11位と予想外の好成績を上げたばかりでなく(ハントは転倒リタイヤ)、義一さん、淳三さん、谷口さんで「ホンダチーム」としてエントリーしていた「チーム賞」も獲得するなど、参戦初年度としては、まずこれ以上の結果は望み得ない、と言ってよい成績を残しています。

写真:
上:1959年マン島遠征時のメンバー
左から、鈴木淳三、鈴木義一、河島喜好、飯田佳孝、廣田俊二、田中楨助、関口久一、谷口尚己の各氏
中:RC141
下:RC142(マン島TT出場時のもの)