案の上というか、当然というか、周囲の予想通り、瞬く間に本田技研の台所は、火の車になった。

ちょうどその頃、朝鮮戦争が終結し、特需がなくなった。
運の悪いことに、日本全体が景気の停滞期に突入してしまったこともある。
オートバイの部品代が払えない。
従業員の給料が払えない。
なにしろ、金がないのだ。
資金繰りを預かっていた藤沢は、金融機関、下請けのメーカー、会社の従業員など、ありとあらゆる方面に日参し、支払いの滞っていることを詫び、更に支払いを延ばしてもらえるよう、頭を下げて回る日々が続いた。
夜寝ていても、体中に冷や汗をかいて飛び起きることが何度もあった。
「そのうち、あの会社もつぶれるよ。」
そんな風評も立つようになってくる。

宗一郎がイギリスへ旅立ったのは、そんな頃だった。
手形の期日七月が間近に迫り、それが落とせなければ会社は破産する、という時期に、宗一郎は日本からいなくなった。
目的は、世界最高峰と言われた、イギリスのマン島で毎年行われているオートバイレース、マン島TTレースを視察するためである。
もっともこれは「財務に疎い宗一郎を、破産の現場に立ち合わせるのは忍びない」と考えた藤沢が、渋る宗一郎を無理やり日本から追い出した、というのがその真相だった。