私の知っている親父は、まじめだけが取り柄の、ごく普通のサラリーマンでしかなかった。
今となっては親父に申し訳ないが、有体にいえば私は親父のことを、地味であまりぱっとしない万年係長のようなイメージでしか見ていなかったのだ。
誰でもやろうと思ってできる訳ではない、そんな特殊な才能を持ち合わせていたなんて、思いも寄らなかった。
私は、親父がどんな人生を送ったどんな人間だったのかをまったく何も知らないまま、生まれてこの方40年近くも生きて来ていたのだった。

「とうさん、知らなかったよ。すごいじゃないか。」
新たに沸き上がった尊敬と悔恨の念をない交ぜにしながら、親父が寝ているベッドの枕元で、私は親父にそう話しかけずにはいられなかった。
だが、病のためにすでに意識があまりはっきりしなくなっていた親父は、その私の言葉に何の反応も返してはくれなかった。
その時の私の言葉が親父に通じたのかどうか、私には分からない。

親父の経歴が、普通のサラリーマンと明らかに違うものであることを思い知らされたのはその数日後、親父の葬儀の時だった。
その人の価値は死を迎えたときに初めて分かる、というが、そのとおりだ。
私は自分の蒙を深く恥じ入った。

参列頂いた方の中に、本田技研の社長だった河島喜好さんがいる。
元ホンダワークス監督の秋鹿方彦さんがいる。
日産ワークスで鳴らしたドライバーの北野元さんがいる。
マン島TT初出場のときのメンバーだった谷口尚己さんや田中楨助さんがいる。
祭壇の生花の中には、チームクニミツ代表として高橋国光さんの名前がある。
その他、香典を頂いた方の中にも、ホンダが世界GPやF1に初めて挑戦した頃に力を尽くされた方々の名前が、きら星のように並んでいる。
どなたを取っても、普通に会社勤めをしているだけでは、到底知り合う機会などない方々ばかりだ。

「やられた。」
そう私は思った。
親父は、こんなに数多くの高名な方々に惜しまれながらこの世を去ったのだ。
しかも私たちにはそんなことを一言も披見することなく、自分の輝かしい青春の日々は、そのまま黙って墓場まで持って行ってしまうつもりだったのだ。
今の私では、とても親父に敵わない。
私は、親父を大きく見くびっていたのだ。

親父は、若い頃「ホンダスピードクラブ」というクラブチームに所属していた。
クラブチームとはいっても、実質的にはホンダが世界GPを走らせるライダーを養成するために作った組織だ。
ホンダの世界グランプリ参戦のごく初期、ライダーはすべてこのスピードクラブのメンバーから選ばれている。
社内の希望者から厳しい選考の上に選りすぐられた精鋭たちで構成され、当時は「泣く子も黙る」と称されたほど、士気と技能の高い人達の集まりだったという。
親父の葬儀の折には、このスピードクラブで親父の同僚だったOBの方々に、本田技研の関係各位の受付を買って出て頂いた。
私にとっては、初めて親父の友人の方々と、言葉を交わす機会を得ることになった訳だ。

あれは、通夜の晩のことである。
受付の手伝いを終えて帰りのタクシーを待つ間、親父の同僚だった方々は、代わる代わる親父の棺の前に立ち、棺の窓から横たわる親父の顔を覗き込んで、最後の別れの言葉を投げかけておられた。
それを見ていた私が、誰に言うともなく、「皆さんの絆って、強いんですね。」と思わず口にすると、
「俺たちの絆は、そんじょそこらのクラブとは訳が違うんだ!」
ほとんど叫ぶように、そうメンバーの一人の方が言っていたことが、今でも忘れられないでいる。

私が、親父の青春時代についてもっと知りたい、と思うようになったのはそれからだ。
そして、今こうしてこのブログを立ち上げようとしている。