『独白』~笹倉~

総武線が東京を抜け
千葉県に入る頃
暗い雲はとうとう耐えきれなくなったように
薄ら寒い雨を落とし始めました
河川敷に響く
冬には珍しい遠雷と
雨に濡れた動物のような枯れすすきが
私を嫌な気分にさせました

まもなく到着する駅で上り車両に乗り換え
そのまま家に帰ってしまおうかと心が揺れました

今しっかりとSに対峙しなければ
もう二度と同じ勇気を持つことはできないだろう

心から漏れる声をなだめすかしビクつきながら生きる日々…


やはりけじめをつけよう
今がその時だ

私は迷いを振り払いました

Sはいつだって
私を待っているはずでした



総武線

十代の頃この黄色い電車は
私と未来を繋ぐ道標でした

地元でも手に入る
本やCDを買うために
私は少ない小遣いの中から
わざわざ交通費をかけ
江戸川を越えて
都内に行ったものでした

路上パーキングに無造作にとめられた高級車の数々

自分の感性ではおよそ思いつかない
ビルのウィンドウディスプレイ

洗練された着こなしの女性の闊歩


重厚なイタリアンレストランの扉から
店員の見送りを受け出て来る客

学生の自分に手が届かないそれらの光景は

やがて必ず手に入るものたちとして
私の目を楽しませたものでした

あの傲慢で純粋な高揚感を
私は18才で失いました



受験目前の晩秋

もう塾内に小野寺さんの居場所はなくなっていました

塾生だけでなく
講師達の間からも彼女が孤立しているのが私にもわかりました

学校帰りの夕暮れ

塾の外に置いてある錆びたベンチにひとり座って
煙草を吸っている彼女を
何度も見かけました

ビルの窓ガラスの反射で
赤い夕陽に染まったシルエットはいかにも儚く

自分が迷い込んだ場所がわからずむやみに歩き回った後
力尽きてしまったように見えました


数学の講義はもはやイジメの構図でした

自信を失った彼女の講義には
低い声の悪態や
舌打ちや
聞こえよがしのため息が浴びせられ
一層彼女を萎縮させました

最初の一手を間違え
追い詰められているのは明らかに小野寺さんの方でしたが

Sへの同情と
小野寺さんへの嫌悪は
もはや変えられないルールでした

一度愛したものに失望したとき
人は愛したその何倍もの憎しみを返す生き物であることを
あの時私は学びました

そして私は
つねに傍観者でありつづけました

トラブルや諍いは好きではなかったし
私にとって大切な事は
ただ受験に成功する事だったからです

表面上は…。



あの
Sの奇妙な告白の夜以来

心の内部深い所に芽生えた残酷な好奇心を
実は私は抑え続けていました


私はSに…

私はSに追い詰められて

理知的だった小野寺さんが破滅していく様を

じっくり最期まで見届けたいと切望していたのです

(続く)
『独白』~笹倉~

女性講師の名は
確か小野寺さん…だったと思います
三十代に入ったばかりの
背中まで伸びた髪の綺麗な女性でした

私が塾に入ってからずっと
小野寺講師の授業は
とても人気のあるものでした

歯切れの良さとユーモアで
生徒の集中力を弛ませない技量
飾り気ないこざっぱりとした容姿

受験生の不安で
灰色にくもった教室の窓を開け放ったように
一瞬に空気を澄み渡らせる
明るさとバイタリティを持っている女性でした

Sとの一件の後

生徒達の心は彼女から離れ
その授業は生彩を失いました

Sは数学の時間になると
すっと席をはずすのが日課となり
それがまたみんなの同情を集め
講師への不信感を募らせました

「このおかしな状況
親は知ってる?
塾は知ってる?」

一度
帰ってきたSにたずねました

Sはバッグから筆記用具を出しながらおかしそうに笑って

「塾は親だよ
でもありがとう」と言い
私はわかったようなわからないような
半端な気持ちのまま席にもどりました

その日の九時過ぎ
塾を出てひとり
自転車をひきながら歩道に出た私は
徒歩で反対方向に帰るはずのSになぜか行き逢いました

Sは「やぁ」と自然な感じで
寄ってくると
私と並んで歩きながら
こんなふうに話し始めました

「息をひそめて
自分がいなくなればいいと願ってる
そういう家
想像できるかい?」

「君の家の事?」
敢えて
さらっと聞きました

返事をする代わりに
Sは言いました

「じゃあこれは?

出て行った母親

血のつながってない親父

親父とできてる塾の講師」

Sは
言葉の効果を確かめるように
一呼吸分私を見てから続けました

「親父は僕を投げ出したい

女は僕をどかして
自分のスペースを空けたい

二人とも僕が邪魔でしょうがない」


「ふぅん」
私には無縁の世界でした

「あからさまに嫌がらせして
みんなの同情を君に向けて
あの人はどうしたいんだろう?」

夜露に湿った
私の自転車のサドルを
白い指でタタンとはじいて
Sは言いました

「思い詰めてるんだよ
憎らしい僕を痛い目にあわせて親父を喜ばせなきゃって
それでまわりが見えなくなってるんだ
愚かだね」

そして
黒い瞳でまっすぐに私を見つめいかにも面白いといった顔で
微笑みました

日頃の物静かなSは消え
夜の闇からエネルギーを得たように
凄みのきいた美しいSが
私を捉えました


不意をつかれた私は
痛みなのか陶酔なのか
判別のつかない感情の波にのまれて
目もそらせないまま
立ちつくし


数秒後
Sは囁くように「おやすみ」と言うと
反対方向に踵を返し
一度も振り返らずに歩いて行きました

私はしばらく
自転車に乗る事も忘れ
Sの後ろ姿を見つめていました

帰り道
Sの問いかけが
繰り返し心によみがえりました
「想像できるかい?…
君に想像できるかい?…」


闇から生まれ出た
妖精のようなSの残像に

私は答えました

「想像できないよ

君は
あきれた嘘つきだね…」

(続く)

『独白』~笹倉~

地元の県立高生が大半の
その進学塾では
都内の私立高校に通うSは異色の存在でした

塾の経営母体が
辣腕実業家の彼の父だとか
Sの進言で講師の業務評価が
大きく左右されるので
塾の講師達は彼にひどく神経を使っているとか

Sには色々な噂がつきまといましたが
実際の彼は寡黙で大人しい青年でしたし
彼の父の気配を塾内で感じた事もありませんでした
地元では
自由と自主性と講師の個性が有名なその塾に通う者としては
噂が噂の域を越えるものとは思えませんでした

Sにとっては
人とつるむ事がない私が話しやすかったのか
休憩時間や帰宅前などにすっと寄ってきて
他愛ない話を二、三言かわしていく事もありました

私も多分
そんなふうにSと話す事が
好きだった
と思います

彼の浮かれることのない物静かさや
テレビのアイドルや個人を題材にしない会話の質が
私の好みにそぐっていたのだと思います
その話しぶりには独特の「憂い」のようなものがあり
何となく家庭の寒さのようなものを感じさせました


受験も間近な三年生の晩夏
そんな塾内にちょっとしたさざ波が立ちました

数学の講義のさなか
女性の講師が突然Sの前に立ち感情を抑制した低めの声で言いました
「あなた今日で三回目よね?
違う教科の勉強はこの教室の外でやってほしいんだけど」

Sは講師を見上げると
素早くやりかけの英語の問題集をしまい、重ねてあった数学のテキストに目を落としました

「いいえ
私の講義を聞く必要はないからここから出て行ってと言ってるの!」

Sはもう一度ちらりと講師を見ると
「すみませんでした」
と小さな声で謝罪をしました

「そうじゃなく
ここから出て行ってと言ってるの!

今から三分間あげるから
身の回りを片付けて出て行きなさい」

講師は冷たい怒りを漂わせながら
腕時計のストップウォッチのスイッチを押しました

Sはじぃっと講師の顔を見ていましたが
「残り三十秒」
の声で観念して
机の上のものをひとすくいでバックに収めると
出口で一礼して教室を出ていきました

教室は恐ろしいほど静かな三分間に支配され

その講義はぴったり三分間オーバーして終わりました

どこで時間を過ごしたのか
1時間後にSは頬を紅潮させて戻ってくると
自分の席に音も立てず着席し
次の講義の用意をし始めました
他教科の時間に自分の弱い教科の自習をする事は
塾では暗黙の了解だったので

教室を出されたSの間の悪さに皆の同情が集まりました

そしてSへ過剰な怒りを見せた女性講師を訝しく思いました

講師は
その後も些細な事を理由に
Sを攻撃し続け

Sはそのたびに謝罪しました


誰もがそのやりとりに不自然さを感じ取っていました

(続く)