こんにちは♪島根・松江でヒーリングサロンはるを開いている、スピリチュアルヒーラーの引野律子です。ご覧いただき、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私の使命ってなんだろう?」と思う人は多いと思います。サロンのご相談でも、よく聞かれます。「使命を見つけなくちゃ!」と思っている人も多いのではないでしょうか。

 

 

 

少し前まで、私は「その人の使命は1つ」と思っていました。なんとなく高尚で、多くの人の役に立つこと、人から「すごいね」と言われるようなこと。でも、最近その考えが少し変わってきました。

 

 

 

使命は1つではなく、いくつもある場合もある。夢中になれたり、楽しめるものの場合もあるし、苦しかったり、うまくいかない経験ということもある。たくさんの人に周知されることもあるし、個人的なことにとどまることもある。大小ではない、「その人独自のもの」と思うようになりました。

 

 

 

 

本を読んだり、人の話を聞いたり、ご相談のいろいろなケースを通じて感じたりしたことで少しずつ変わってきた「使命とは」。いろいろな「使命の形」があると思うので、数回に渡って書いてみようかなと思います。よかったらお付き合いください♫

 

 

 

 

今日は、自分のことを書いてみようと思います。

 

 

 

 

私は大学の教育学部を卒業後、小学校の教員になりました。いつから先生になりたいと思い始めたのかははっきり覚えていませんが、小学校から高校まで、合唱や吹奏楽をしてきたので、「子供達と一緒に音楽ができたらいいな」という思いがあったのが大きいかな、と思います。

 

 

 

 

小学校の先生になったものの、分からないことだらけで毎日残業、土日も出勤という毎日になりました。でも、不思議と嫌だとは思いませんでした。仕事のことを教えてくれる先輩方にも恵まれ、自分でお給料を稼ぐことや一人暮らしの楽しさを味わうことでスタートした教員生活でした。

 

 

 

 

毎日夜の7時8時まで学校で仕事をし、家に帰ってからもお便りを書いたり、朝早く起きて学級会計をしたり、時には交通安全指導で街頭に立ち、土日は部活やボランティア活動に出たり、平日に終わらなかった事務仕事をしました。こう書くと「やっぱり先生の仕事ってブラックですね〜」と思われるかもしれませんが、当の私は楽しくやっていたので、苦労とは思わなかったのです。もちろん休日はよく遊びました〜。仲のいい同僚と旅行にもよく行きました。

 

 

 

 

そんな生活は35歳で結婚するまで十数年続きました。まず、ここまでが自分の「使命 その①」の時期だったかなと思います。未熟な面もたくさんあったけど、周囲に支えられてとても楽しく教員生活を送ることができた期間でした。楽しい、嬉しい、夢中になれる、勉強が苦にならない、やりがいがある、という意味での使命だったと思います。

 

 

 

 

そんな私でしたが、結婚したら生活が大きく変わりました。すぐに赤ちゃんを授かり、産休・育休となったのです。外へ出ていた毎日から、赤ちゃんとずっと家にいることになったこと、初めてで何をどうしたらいいかわからない子育てが始まったことで、心身に不調が出てきました。授乳もあってか、夜、眠れなくなり、「楽しい」と思うことがなくなりました。いつも頭の中にもやがかかったようで、すべてのことが不安に感じる私は、「産後うつ」になっていました。泣き止まない子供を救急外来に連れていき、「ただの夜泣きです」と言われて帰ってくるようなこともありました。教員の仕事はなんとかできたのに、「子育てがわからない」という自分になり、漢方の処方やカウンセリングに頼ってなんとか凌ぐ毎日でした。

 

 

 

 

さらに、だんなさんの転勤で、離島である隠岐島へ引越しすることになり、住む環境もがらっと変わりました。知り合いもいない中で、宿舎で生後数ヶ月の子供と向き合う暮らしは、とてもきついと感じていました。うつはよくなってきていたけど、感情の起伏は大きく、だんなさんにもよく当たっていました。ものすごい孤独感でした。

 

 

 

 

そんな私を救ってくれたのは、子育て支援センターと仲良くなったママ友たちの存在でした。保育園の一室へ毎日のように通い、同じくらいの子供をもつお母さんたちと一緒に過ごすようになって、隠岐の島での暮らしが少しずつ楽しめるようになってきたのです。人と話すことでこんなにも気持ちが晴れるんだ、という経験をしました。

 

 

 

 

そして、宿舎にも人が遊びに来てくれるようになり、下手だけどバレーボールのサークルに参加したり、一緒にフリーマーケットを開いたりして、「自分たちで楽しみを見つける」「子供のいる家で楽しむ」ということが生きる喜びになりつつありました。

 

 

 

 

二人目も生まれて、長らく育休を取らせてもらい、結局4年間隠岐で過ごした私は40歳になっていました。そして、今の家を建てて松江に戻ったのですが、「家に人を呼んで、楽しい時間を過ごす」ということが、50歳で退職してサロンを開く、という10年後の自分に繋がっていた・・ということは想像もしていませんでした。

 

 

 

 

ここまでが私の「使命 その②」のお話です。生活の大きな変化、うつ、孤育て、というきつい時期もあったのですが、そこから周りに助けられて生活を楽しむことができるようになった経験は、今の私にとって不可欠なものであったと思います。

 

 

 

 

その時は、「なんでこうなるの?」「これはいつまで続くの?」「もう嫌だ」という状況が、自分にとって大切な経験や気づきにつながるということ。それも、使命だと思うのです。そして、「あの経験があったから、今の自分がある」ということが分かるまで、何年、何十年必要なこともあるかもしれない、と思います。

 

 

 

 

 

長くなりましたので、今回はここまでです。次回は、教員の仕事を辞めてサロンを開く流れになった「使命 その③」と、今の私の仕事についての「使命 その④」を

お届けする予定です!