こんにちは🙂✨✨
現在、仕事上の宿題に追われておりますが(T_T)、久しぶりの更新です。
早速ですが、
以前からフォローさせていただいてる
お二方の記事より。
お二人とも、現在の熊本から
吉備地方まで
古墳造成(石室)の為の石が運ばれていた事を書かれてらっしゃいます![指差し](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/602.png)
![指差し](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/602.png)
輸送船は、カタマランとも呼ばれている
双胴船じゃないかなぁ……と思うのですが
輸送ルートについて![ニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/022.png)
![ニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/022.png)
現在の福岡県の河川図
(ピンクは私が勝手につけた、河川運搬 があったであろうコース😅)
干拓や川の土砂堆積後の現在の風景では
想像しにくいかもしれませんが、
かつては筑後平野の内陸部まで、
博多湾も、福岡市南区やその周辺の市・町がある内陸部まで
海水が来ており、
有明・東シナ海側~玄界灘~瀬戸内海と、
物資も人も往来が盛んであったと思われます(多分)。![ニコニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/002.png)
![ニコニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/002.png)
こちらから記事の一部をスクショしてお借りしました。
(上記「古代史ネット」の記事は他も興味深いので、良かったらクリックして目を通されて下さい🐵)
多分、、です😅
学者さんではないので、全くもっての想像です。
瀬戸内の古墳に使用された宇土のピンク石(馬門石)は、
有明海から大潮の上げ潮に乗って内陸部へ運び込まれ集積。
さて、ここで問題が😱😱
陸路は浮力を使えない〰️。
重い一枚石です。牛馬でも人力でも
わずかな距離とは言え大変です。
(この頃は牛🐮さんも日本に上陸してたらしい)
まぁ、大王の古墳用ですから、
100枚単位なんて事はないと思いますけど、
10数枚くらいは運ぶかな~?
もし水路を造成できたなら
石だけ浮かべて、
両サイドから人や牛が引っ張れば良いのだけれど、
現在そんな遺構は残ってない様子。。
そこでピーンと来たのが、
現在の久留米・鳥栖・小郡辺りは
九州北部の内陸部にあたり、
冷えるんです。
太宰府近辺もよく雪が降ります。
有明から小郡あたりまでは
あちこちに湿地帯があります。
泥も摩擦係数が低くなるけれど、
これら水分含んだ土が冬季に凍ったら?💡
摩擦係数が低くなり、
木の橇🛷に乗せて運ぶのも楽にならないかしら?って![お願い](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/025.png)
![お願い](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/025.png)
或いは、湿地帯ですから
葦やイ草も豊富です。
多少摩擦熱でぬかるんでも、それらを足元に敷きつめたら大丈夫じゃないのかな?
ほら、山歩きなどで泥の上に足を乗せると ズルッ と滑って、
滑り落ちたりすることありますよね。
萱草(かやくさ)とかも同じく
傾斜があるとズルッと滑っちゃいますよね~![看板持ち](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/603.png)
![看板持ち](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/603.png)
とにかく泥は摩擦係数が低いんですよ。
(ただ、下がある程度固くないといけないけれど😅)
全てオーダーで、
その時に石を切り出し、
でもって急いで運び出し水陸を輸送……
となると、
いろいろ支障をきたすでしょうけど、
大王の石室用に
ニーズがあるとわかってたならば、
幾つかの集積地を確保して
輸送に都合が良い大潮の時に
内陸部の小郡あたりに貯石。
冬季は陸路を博多湾まで。
農作業もないから、人夫加勢もある事でしょう。
そして博多湾にあちこちから流通品が集結。
玄界灘は冬は荒れるので
5月くらいの順風の時に瀬戸内や畿内へ出立とか……
もちろん、 関門海峡も潮時待ちが必要です。
連携する専門職が居たのだろうなぁ~
( ´艸`)
なんて考えると、古代史もまた楽し✨✨
です。
また、特に筑後平野は宝満川が重要☝
有明海から長崎・平戸を抜けての玄界灘コースは、
もう少し海上輸送力が発達しないと難しかったと思います。
で、湿地帯ですが
牟田・むた は九州発祥の言葉だそうです。
他力ばかりですみません(-ω-;)↓
こちらの解答者が どえりゃー詳しくて
びっくり(゜Д゜;) です。
(↓上のヤフーの解答より転載です。🙇)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230627/14/hiki-take40/ec/02/p/o0976108015305081240.png?caw=800)
(以上、転載終わり。)
そうなのね~ 🐧🐧🐧🐧
知らなかったです。
逆に「牟田」の地名がヨソにある場合は
九州との繋がりが濃かったのかもしれませんね。
因みに、いま住んでる地域では
泥の事を ぬた と言いますが、
(例えば猪が泥浴びするところを ぬた場 って言いますよね。)
酢味噌も ぬた って言います。
粘土の高い泥じゃなく、
もっと水分を多めに含んだものを
ぬた と呼ぶようです。
小郡市には七夕神社があります。
ククハタチヂヒメがご祭神です。
織物女神様ですが、
今朝ふと気づいたら織るモノって
布ばかりじゃなくイ草も編まなきゃいけないんですよね。
しかも泥染めとかするし。
米作りしてたらムシロも編むし。
湿地帯の織物の神様は、機織りもですがイ草編みも伝えてくれたのかしら🙂✨
さて、現在の大河ドラマ
『どうする家康』を見てる方はいらっしゃるかしら……(^^;)
友人は早々に視聴を退散したそうです……。
私達夫婦は結構面白く見ておりますが。
で、今回知りましたが
宝満川は昔は「宝満川」でなかった(!)のだそうです。
宝満川は、江戸時代以前は
「徳川」・「得川(とくがわ)」
と呼ばれていたのだそうです。
ほうほう……っと検索して、古い地名に
三加和(みかわ)ってのを見つけて
あらまあっ!(ヤッター!)て思ったんですが
それは明治になってからの土地名でした(T_T)。残念。
湿地帯に、
大陸から知識を持った人達と共に
牛・馬も来たんじゃないかなぁ。
縄文時代には日本にはいなかった。
なので、日本神話でスサノオが
高天原にてアメノフチゴマを
アマテラスの機織り女のいる屋根から投げ入れるってのは、
大陸から馬🐴が来ないと無理ゲーなんですよね。
さて、長ーく間が空きましたが、
祇園祭や博多山笠などの疫病退散の祭礼も7月に入ると始まります。
次は
牛🐮さん・牛頭天王で
この3ヶ月でわかった事を多少妄想全開で書こうかなと思います![ニコニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/002.png)
![ニコニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/002.png)