こんにちは🙂✨✨

現在、仕事上の宿題に追われておりますが(T_T)、久しぶりの更新です。


 早速ですが、
以前からフォローさせていただいてる
お二方の記事より。

 


 


 お二人とも、現在の熊本から
吉備地方まで
古墳造成(石室)の為の石が運ばれていた事を書かれてらっしゃいます指差し

輸送船は、カタマランとも呼ばれている
双胴船じゃないかなぁ……と思うのですが

 





輸送ルートについてニコ

現在の福岡県の河川図




(ピンクは私が勝手につけた、河川運搬 があったであろうコース😅)



干拓や川の土砂堆積後の現在の風景では
想像しにくいかもしれませんが、
かつては筑後平野の内陸部まで、

博多湾も、福岡市南区やその周辺の市・町がある内陸部まで
海水が来ており、

有明・東シナ海側~玄界灘~瀬戸内海と、
物資も人も往来が盛んであったと思われます(多分)。ニコニコ

 


こちらから記事の一部をスクショしてお借りしました。
(上記「古代史ネット」の記事は他も興味深いので、良かったらクリックして目を通されて下さい🐵)






多分、、です😅
学者さんではないので、全くもっての想像です。

瀬戸内の古墳に使用された宇土のピンク石(馬門石)は、
有明海から大潮の上げ潮に乗って内陸部へ運び込まれ集積。

さて、ここで問題が😱😱
陸路は浮力を使えない〰️。

重い一枚石です。牛馬でも人力でも
わずかな距離とは言え大変です。
(この頃は牛🐮さんも日本に上陸してたらしい)

まぁ、大王の古墳用ですから、
100枚単位なんて事はないと思いますけど、
10数枚くらいは運ぶかな~?

もし水路を造成できたなら
石だけ浮かべて、
両サイドから人や牛が引っ張れば良いのだけれど、
現在そんな遺構は残ってない様子。。



そこでピーンと来たのが、
現在の久留米・鳥栖・小郡辺りは
九州北部の内陸部にあたり、
冷えるんです。
太宰府近辺もよく雪が降ります。


↓これは、ぬかるんだ道。

有明から小郡あたりまでは
あちこちに湿地帯があります。

泥も摩擦係数が低くなるけれど、
これら水分含んだ土が冬季に凍ったら?💡

摩擦係数が低くなり、
木の橇🛷に乗せて運ぶのも楽にならないかしら?ってお願い

或いは、湿地帯ですから
葦やイ草も豊富です。
多少摩擦熱でぬかるんでも、それらを足元に敷きつめたら大丈夫じゃないのかな?

ほら、山歩きなどで泥の上に足を乗せると ズルッ と滑って、
滑り落ちたりすることありますよね。

萱草(かやくさ)とかも同じく
傾斜があるとズルッと滑っちゃいますよね~看板持ち



とにかく泥は摩擦係数が低いんですよ。
(ただ、下がある程度固くないといけないけれど😅)


全てオーダーで、
その時に石を切り出し、
でもって急いで運び出し水陸を輸送……
となると、
いろいろ支障をきたすでしょうけど、

大王の石室用に
ニーズがあるとわかってたならば、
幾つかの集積地を確保して
輸送に都合が良い大潮の時に
内陸部の小郡あたりに貯石。
冬季は陸路を博多湾まで。
農作業もないから、人夫加勢もある事でしょう。

そして博多湾にあちこちから流通品が集結。

玄界灘は冬は荒れるので
5月くらいの順風の時に瀬戸内や畿内へ出立とか……

もちろん、 関門海峡も潮時待ちが必要です。

連携する専門職が居たのだろうなぁ~
( ´艸`)
なんて考えると、古代史もまた楽し✨✨
です。


また、特に筑後平野は宝満川が重要☝


有明海から長崎・平戸を抜けての玄界灘コースは、
もう少し海上輸送力が発達しないと難しかったと思います。





で、湿地帯ですが

牟田・むた は九州発祥の言葉だそうです。


他力ばかりですみません(-ω-;)↓
 


こちらの解答者が どえりゃー詳しくて

びっくり(゜Д゜;) です。



(↓上のヤフーの解答より転載です。🙇)



(以上、転載終わり。)

そうなのね~ 🐧🐧🐧🐧
知らなかったです。


逆に「牟田」の地名がヨソにある場合は
九州との繋がりが濃かったのかもしれませんね。


因みに、いま住んでる地域では
泥の事を ぬた と言いますが、
(例えば猪が泥浴びするところを ぬた場 って言いますよね。)

酢味噌も ぬた って言います。

粘土の高い泥じゃなく、
もっと水分を多めに含んだものを
ぬた と呼ぶようです。




小郡市には七夕神社があります。
ククハタチヂヒメがご祭神です。

織物女神様ですが、
今朝ふと気づいたら織るモノって
布ばかりじゃなくイ草も編まなきゃいけないんですよね。
しかも泥染めとかするし。

米作りしてたらムシロも編むし。

湿地帯の織物の神様は、機織りもですがイ草編みも伝えてくれたのかしら🙂✨





さて、現在の大河ドラマ
『どうする家康』を見てる方はいらっしゃるかしら……(^^;)

友人は早々に視聴を退散したそうです……。
私達夫婦は結構面白く見ておりますが。


で、今回知りましたが
宝満川は昔は「宝満川」でなかった(!)のだそうです。


小郡市のサイトより スクショ📷




宝満川は、江戸時代以前は
「徳川」・「得川(とくがわ)」
と呼ばれていたのだそうです。

ほうほう……っと検索して、古い地名に
三加和(みかわ)ってのを見つけて

あらまあっ!(ヤッター!)て思ったんですが

それは明治になってからの土地名でした(T_T)。残念。



また、牟田の「牟」の字は、、




湿地帯に、
大陸から知識を持った人達と共に
牛・馬も来たんじゃないかなぁ。

縄文時代には日本にはいなかった。


なので、日本神話でスサノオが

高天原にてアメノフチゴマを
アマテラスの機織り女のいる屋根から投げ入れるってのは、
大陸から馬🐴が来ないと無理ゲーなんですよね。


さて、長ーく間が空きましたが、
祇園祭や博多山笠などの疫病退散の祭礼も7月に入ると始まります。


次は
牛🐮さん・牛頭天王で
この3ヶ月でわかった事を多少妄想全開で書こうかなと思いますニコニコ