明治天皇の生母、中山慶子



の生母、
つまり明治天皇の祖母にあたる
中山愛子



肖像画は見つかりませんでした。

これは平戸城にある銅像です。ニコ



中山愛子は、平戸藩・松浦家から
公家の中山家に嫁ぎ、3人の子供に恵まれます。
そのひとりが明治天皇の生母、
中山慶子です。





中山愛子の父君、九代平戸藩主
松浦清(まつら・きよし)
(号は松浦静山=まつら・せいざん)

『甲子夜話』の随筆集で有名。


(父親の)八代藩主・誠信までの松浦氏の当主のほとんどは二字名であったが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻したのだという。なお、清以降、松浦氏の名は現在の当主まで一字名で通されている。

また、

安永8年(1779年
藩校維新館を建設

人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けたが、校名は変更していない。

この校名の「維新」は『詩経』の一節に由来すると言われている。明治維新の「維新」と出典は同じである

、清の正室の兄・松平信明老中経験者でもあり、当時の社会情勢、平戸藩の状態からも、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。






とても早かった「維新」の登場。

『維新』

日本では天保元年(1830年)、水戸藩藤田東湖藩政改革への決意を述べる際に、『詩経』「大雅・文王篇」の一節である「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」を引用して用いたのが最古とされている。

それより少し遡る安永8年(1779年)、平戸藩主の松浦清(松浦静山)
藩校を設立した際
校名を「維新館」と名付けた。

そのことに対し、幕府から「維新とは不穏当である(倒幕の意思ありか)」と問責されているが、その後も校名に変更はなかった。これもまた『詩経』より採られたものであった。





※※これは、アメンバーの方しかわからなくって ごめんなさい(>_<) ※※

『甲子夜話』

江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』(完本は平凡社東洋文庫、全20巻)や
剣術書『剣談など、多くの重要な著作を残している。


野村克也の座右の銘とされる
「勝ちに不思議の勝ちあり。
負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、

九代藩主・松浦清本人の発言である[2]。『常静子剣談』とも書かれる。



・・・・・ 甲子園の名前の忖度は ………。真顔





「維新」は「復古」の意味が強い変革の事だそうです。

日本語の「維新」は英語ではrestorationと訳される[1]restorationには復古といった意味がある[2]

2012年に結成された日本維新の会は英語名称をJapan Restoration Partyとしていた[2]。2014年9月に日本維新の会と結いの党が合併して結成された維新の党は英語名称をJapan Innovation Partyとしていた。英語のInnovationは日本語訳では「革新」とも訳される[1]。更に2016年におおさか維新の会から改名した日本維新の会Japan Innovation Partyの英語名称を引き継いでいる。






また、何か追記するかもしれませんが、

平戸城内の意味深な石碑の数々を紹介してくれてる、

誠に 有難~いお方✨✨の記事です。

 



こういうモノに興味持ってくれるなんて、とても嬉しい( ´艸`)