拾った言葉をこねくり回して考え込む、という癖がある。

 

 

「私は捨て子。あなたのおなかにいてあなたに拾われたのです。」

 

 

(ここも「拾う」があるな)

この一文の、意味を考えてる。

 

ほんとうにこれは、断絶を示しているのか?

 

だって断絶ならば、

「あなたはあなた自身のおなかに、わたしを捨てた」とか、ならないか。

「あなたに拾われた」のなら、そこには慈愛があることには、ならないか。

 

…ならんのか。

 

わからん。

 

わたしの貧しい感性と無駄な生真面目さとが合わさると、

この文章の解釈は困難だ。

 

 

それでも冒頭の

「私は捨て子。」のインパクトがわたしを揺さぶり続けている。

 

 

どんな親子にも、

愛着と嫌悪が含まれると思っている。

 

…思ってるけど、違うかもしれん。

 

「私は親に愛着などカケラもないぞ」と言ってる人の気持ちに想いを馳せることはできても、

無言のままの人については、気持ちどころか存在自体を感知できない。

つまり、本当に、愛着も嫌悪も持たない人は、

「わたしはそれを持たないぞ」という主張すらしないから。

わたしはその存在を、(想像はできても)感知はできない。

 

 

皆、なぜ、わかってほしいという衝動を持つんだろう、と

考えてみる一方で、

誰にもわかって欲しいと思ったことのない人については、

その存在すら感知できない。

だって、彼らは

「わかって欲しくもない」という事自体も、わかって欲しくもないから。

無言で、気配を絶っている。

 

 

わたしの知らない事、

知らない事すら知らないことが、たくさんある。

 

 

 

 

 

「私は捨て子。あなたのおなかにいてあなたに拾われたのです。」

 

 

 

 

 

未知の穴を覗き込んだ、まったく何も見えない真の闇のその先に、

「何かある」と、感じさせる一文のように思う。