タイトル何のこっちゃ。こわい。

このブログへのリンク消してから、だんだん好き勝手書くようになってきたような。
そうでもないような。
そうなりたい、ような。

タイトルにたどり着けるかわからんけれど、考えたままを順番に書いてみる。

 

 

要は、記憶の保存とクローンの話だ。
↑この一行を読んで、「うへえ」となった方、もう読むのをやめていいと思います。
こんなタイトルだけど意外に面白い方向へ話は伸びて…とは、なりません。

ずっとこんな話です。

わたしいつ中二を卒業できるんだろうか。

 

 

 

技術的に可能かどうかはわりとどうでもいい。

クローン、あるいは義体、あるいは全く別の肉体に、自分の記憶を移植したとして。

今の自分が死んだら、やっぱそれは自分の死ではないですか、と。
ずっと、腑に落ちない感じがあった。

マモーが何千年何万年をも、クローン技術によって生きて記憶を繋いでいたとして、
(マモーの説明を一切しない)
いちばん最初のオリジナル肉体が死んだら、それやっぱ死ではないですか、と。

死んだ自分から見たら、
自分と同じ組成の肉体と自分と同じ記憶をもつ、別人が生きてるだけでないですか、と。

 

一方で。

自分と同じ記憶を持つ人間が目を覚ましたら、やっぱり、あーおはようーってなって、普通に、わたしはわたしよね、って思うと思う。
(思うと思う、って、ひどい文章だな。)
その記憶の自分が、また続きを生きることになるようにも思う。

コピーだろうが、眠る前までの記憶があって、目が覚めたなら、そりゃあ、その人間は「わたしが目覚めた」って思うよね。コピーは自分だ。

んー。自分ってなに。

 

 

おとといまでの記憶を別のからだに移して目覚めさせたら、おとといの続きを生きることになる。
え、じゃあ、昨日の自分は何だと思えばいいの?
オリジナルの自分が生きてて、で、おなじ記憶をもつ自分をもう一体つくって、
それって自分がふたりいますか?
でも、もう、むこうの自分とこっちの自分で、互いの考えてることは同じじゃないですよね?
そこ、同じってことでいいの?
昨日までの自分は、何人いても今日の自分と同じ考え・行動になりますか?
んじゃ、ひと月経つとどうですか?
1年経ったら…、
5人自分を複製して、1年後には、5人はすべて同質ではないよね確実に。
別人じゃん。

 

 

以上。

これは、「昨日までのわたしは、確実にわたし」という前提に基づいた話。

 

 


先日、

若いころの自分は何を思っていたのか、って考えて。
で、
今、
むかしの自分の気持ちや行動を、今の自分で理解しようとして、
「それって今の自分が納得できるように説明してるだけじゃん」ってなった。
むかしの自分に失礼じゃん?
むかしの自分に失礼だ、って考え方は、ある本を読んだ影響なんだけど。
正確には、ある本のあとがきを読んだ影響なんだけど。
(本の説明を一切しない)

 

今年のアイディアノートを読み返すと、

まーーーー、数ヶ月前の自分が理解できません。
「え、こんなアイディア考えてたのか。こいつ面白いじゃん」ってなる。
むかしのわたしは、別人だ。
いやいや、半年も前でない自分でも、別人だ。

継続している、つもりでいる、だけ。

 

 

じゃあ、

自分の記憶を移植したモノが、自分と別物でも、まったく構わないんじゃん?


別物が生きていても、自分が生きてるってことで、いいかも???

 

 

だってさ。
半年前とは別人の自分が、自分〜って顔して平気で生きてるんだもん。

 

 

 

…そういうわけで。

 

わたしは目出度く、クローンあるいは記憶のデジタル化によって、永遠に生きられることになりました。

個人の感想です。

 

技術さえあればね。

 

 

 

ふう。タイトルにたどり着けた。ってことにして終わります。