もう、いつごろだったかも思い出せない。

わたしは過去に、

「表現の規制があるならば、その規制の基準が杓子定規であることは

 むしろわかりやすくて助かる」

みたいなことを言ったように思う。

それは、「描く側」の視点でのみ考えたことだった。

 

大きく間違っていました。

 

読む側として考えたら、

(正直に、心のままの言葉で言うと)

「規制? 待ってやめて何してくれてんの!」

って感じだ。

 

どんな表現でも、できる限り、横槍はあって欲しくない。

何かを生み出すひとの、良くも悪くも、出力してみたかったものそのままを

解毒なしに口に入れたい。

それで傷つくのも病むのも死ぬのも、わたしの好き勝手にする。

これが、正直な気持ちです。

 

 

でも、それだからといって、

「規制は一切、するべきでない!」みたいには、

思わないし、もちろん主張もしないです。

 

 

 

表現者が、その衝動のままに創作することを、見過ごすことができない人もいる。

 

それは、それぞれに、「守りたい存在」があるからなんじゃないかしら。

わたしは子供を持っていない。けれど、不完全ながらも想像はできる。

まだまだ柔らかくか弱い舌に、激辛の毒を乗せようとしているこどもを見たなら

「待てやめろ」って言うだろうし、

「これを差し出したやつ、許せん」くらいは思いそうだよな。と。

そこを何でも「本人の自由だ」とか「保護する者の責任だ」って言ってしまうのも

酷だよなあと思う。

 

なんか、まったくうまくない、幼稚な言い方しかできなくてごめんなさい…

 

 

 

刺激に弱いひとを守ることと、表現するひとが自由に手足を伸ばすことを

同時に大切にする道はないのかなあと思う。

 

自分の立場を明確にした上で、意見を言い合うことが大事だと思う。

そんで、

紋切り型の結論をつけない。

ひとの考えを、否定するところから入らない。

たくさんの集積が、必要な気がする。

 

 

 

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わたしは漫画を描きます。

自分が描いたものについて糾弾されたり、そのせいで自身が抹殺されても

自分の行動の結果だと思って(喜ばしくも、当然の結果だとも思いませんが)納得はできます。

 

けれど、他人が表現されたものを、受けとめる側として言うならば。

今現在の好みのものはもちろんのこと、

未来に出逢うはずのもの、出会っていても今はまだ心底に届いていないもの、

わたしの嫌いなもの、不快なもの、それに触れると傷つくもの、あるいは

心の安定をゆるがし、結果、生命が脅かされる危険のあるものであっても、

すべての表現は、存在していてほしいです。

わたしは大人なので

何かの表現物に影響されて、わたし自身が何か反社会的な行動に至ったとしたら

その責任はすべてわたし自身にあります。

そして、

不快なものから遠ざかる自由、嫌なものを無理矢理に摂取させられない自由が欲しく

同時に、こわごわとけれど好き好んで触れて、結果ケガをする自由が欲しいです。

 

残念ながら、守るべき存在についての想像は、脆弱だと自覚しています。

なので、公に発信するものについては、良識あるひとびとのアドバイスをよく聞きたいと思っています。

 

 

世界は、できるだけ削られて欲しくない。

一方で、

絶えず移り変わる時間に沿って生きているのだから

かつては有ったのにもう二度と見られない、っていうものも、

時間の経過とともに増えていくんだろうなあ仕方ないなあ、とも思っています。

 


 

わたしは

「攻撃」は、するのもされるのも、「攻撃」というものそのものの存在も嫌です。

「こうあるべきだ」「こうあるべきでない」どっちの考え方も苦手です。

意見を出し合ってるはずなのに、いつのまにか攻撃しあってるみたいになるのは、

すごく嫌です。そんな場面からは遠ざかりたいです。

 

ただ生きているだけでも、この手足が言葉が誰かを傷つけることだってあります。

だから、意図的にひとを傷つけることはしたくないし

だれかが意図的に攻撃してくるなら、全力で逃げます。

一方で、

「誰かを傷つけるかもしれない」という恐れを呑んで、

「それでも」と、

表現することに踏み切ってくれる勇気ある人には、感謝をしエールをおくります。

 

そして、

 

わたしと違う考えも、同じようでいてちょっと違う考え方も、すべての考え方は

あっていいと思ってます。