ときどき、

名前をつけずに気持ちそのままを言葉にして吐き出してしまいたいと思う。

そしてそれを、誰かに見つけてほしいと思う。

見つけてもらうために、おもしろい・ひとの興味をひく言葉でなければ、と思う。

名前をつけて、名前を入り口にしてたどり着いてもらうのが手っ取り早い方法のようにも思う。

もう矛盾が生じている。

恥ずかしい矛盾。

 

ながく生きているけれど、

とくに知性も分別も増やせず、思春期のような恥ずかしい欲求もまだ抜けない。

10代のわたしが見たら「ああはなりたくない」と思うだろう今の自分が、

けれど選んでたどりついた場所だとも思う。

 

とても大切なわたしを、できるだけ素敵に装飾しましたさあ見てください、という

それは創作も運動もSNSも、根っこは同じのように思う。

こう見られたいという装飾。

その恥ずかしきあさましき魂胆をなるべく見抜かれないように。

 

何度も文章を打っては消しばかり。

ほんとうの、しんそこからの言葉を記したい。

のに、

それを読んでもらうために装飾して、読まれたくない部分を削除して、

結局はしんそこの言葉から遠ざかる。

読まれたいけど読まれたくない、という宝石(自分にとっては)を、自らの手で、

読まれたくも読まれたくなくもない、なんでもないゴミ屑にしてしまう。

 

たとえば、

ごく少数の、秀でた表現をものにしているひとびとは

こういう 恥ずかしさ を感じずにいられているんだろうか。

 

だれかを指差して笑ったり責めたりしてもつまらない。

けれど、自分が指さされて笑われたり責められたりするのも、それはそれで辛い。

世界中が凶暴になってるように感じる。

けれど、そういうことの   

   何かを指差すことの、無くなった世界は

もう、表現(身体表現・創作・言語化すべて)の要らない世界なのかもしれん。

 

納得してこの凶暴の一員となり恥ずかしさと苦しさを生産する。