エックハルトさんの「ニューアース」
自分に置き換えながらじっくり読んで、まだまだやっと4分の1~わーい(嬉しい顔)


「各部族の文化が古代文明へと発展するにつれて、ある種の人々に支配者、聖職者、戦士、農民、職人、労働者などの機能が振り当てられるようになった。こうして階級制度が発達する。それぞれの機能つまり仕事がその人のアイデンティティとなり、他者の目に(それに自分自身の目に)映る自分が何者かを決定する。仕事イコールその人の役割となって、役割になりきってしまうのだ。」

「役割が自分そのもの、あるいは“自分はこうだ”と考える自分となる。」

「その頃ブッダやイエスなどのごく稀な人物だけがカーストや社会階級などの究極的な無意味さを見抜いていた。」

「それが形への自分の同一化であること、そのように条件づけられた一時的なアイデンティティはそれぞれの人間から輝きだしている無条件かつ永遠の光を覆ってしまうことを、彼らは認識していたのである。」

「現代社会では昔ほど社会構造が硬直的ではなく、それほど強固に構成が決まっているわけではない。もちろん多くの人は環境という条件に左右されているが、自動的に機能を振り当てられてそれを自分のアイデンティティとするわけではない。それどころか、現代では自分がどこに収まればいいのか、生きる目的は何なのか。さらには自分とは何者なのか、人々の混乱は増すばかりだ。」

「私は”もう自分がわからなくなりました”という人にはたいてい、”それはよかったですね”、と応じることにしている。」

「すると相手はまごついて聞き返す。”わからなくなって混乱していることがいいことなんですか?”」

「”それじゃ考えてごらんなさい”、と私は言う。」

「混乱しているとはどういうことか?”私にはわからない”というのは混乱ではない。混乱というのは、”私はわからないが、しかしわかりたい”という状態だ。」

「では、自分は何者かを知りたい、知る必要があるという思いを捨てられるだろうか?言い換えれば自分という意識の観念的な定義を求めるのをやめられるか?思考にアイデンティティを求めるのをやめられるか?自分は何者かを知りたい、知る必要があるという思いを捨てたら、混乱はどうなるか?」

「たちまち消えてしまう。自分にはわからないと素直に受け入れると、かえって安らかでスッキリした状態になり、思考などを通じるよりもよほど真の自分に近づける。」

「思考によって自分を定義しようというのは、自分で自分に境界を引くことだ。」




私も含めてかなりの人々が、自分とは何者か、何をしに生まれてきたのか、何をするべきか・・・な~んて追い求めてきたと思いますが、エクハルトさんに言わせたら、そういう思いを捨てなさいって~ヽ(;▽;)ノ揺れるハート

まあ、答えは出ててそれを受け入れるだけだけどね~ウインク揺れるハート


自分にはわからないって素直に受け入れたら、安らかですっきりするってぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

思考はどうしても枠組みを作ってしまうから、思考を通さない方がいいことはたくさんあると思う(´∀`)