ここ福島県にも「会津大津絵」「会津玄如節」「会津土搗(つ)き唄」「会津長持唄」「会津磐梯山」「会津松坂」「会津万歳」「会津めでた」「会津餅つき唄」「安達さんしょ節」「安達豊年踊り」「飯坂小唄」「いわき地固め唄」「いわき馬方節」「いわき沖揚舟唄」「いわき浜甚句」「いわき盆唄」「いわきめでた」「小名浜大漁節」「壁塗甚句」「 神長老林(かんちょろりん)節」「玄如節」「しのぶさんさ」「信夫田植え唄」「常磐炭坑節」「新相馬節」「相馬北方二遍返し」「相馬草刈り唄」「相馬木挽き唄」「相馬酒盛り甚句」「相馬さんさ時雨」「相馬しぐれ」「相馬甚句」「相馬田植え唄」「相馬土搗(つ)き唄」「相馬胴突唄」「相馬長持唄」「相馬流れ山」「相馬二遍返し」「相馬浜甚句」「相馬節」「相馬盆唄」「相馬盆唄(旧節)」「相馬馬子唄」「相馬麦搗(つ)き唄」「大漁祝い唄」「高田甚句」「伊達甚句」「伊達桑摘唄」「田の草取り唄」「羽黒節」「浜甚句」「原釜大漁節」「福島木挽き唄」「三春甚句(三春盆唄)」「霊山山唄」などたくさんの民謡が採譜されています。

 

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エンヤー会津磐梯山は 宝の山よ(ハァーヨイトヨイト) 

笹に黄金が エーマタ なり下がる(チョイサーチョイサ) または(スッチョイ スッチョイ スッチョイナ)

(小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した ハァ モットモダー モットモダ) 

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と唄われる『会津磐梯山』は「エンヤー」という甲高い掛け声で唄い始められる福島県会津地方に伝わる民謡で、「盆踊唄」「会津甚句」などとも呼ばれ、夏祭りや盆踊りの際に「気狂(かんしょ)踊り」とともに唄われ、1868年、明治時代頃から会津若松市を中心に最も親しまれている唄である。

 

 

 1934年(昭和9年)、日本ビクターが長田幹彦の作詞で、当時の売れっ子芸者の小唄勝太郎に歌わせ、その歌い出しの歌詞から取って「会津磐梯山」と命名されて全国的に広まります。

 しかし、元々の歌詞にはこのような囃しはなく、勝太郎自身、ラジオで「私の会津磐梯山は地元のものとは違っていて、わかり易くするために私が会津の「酒好き」な人情をアレンジしたものです」と、地元伝承のものとは異なる旨を明言している。

 もとは「小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝 朝酒 朝ボボ(女性器を表す古語)が大好きで それで身上潰した」であったようだ。

 

 もともと、民謡『会津磐梯山』は、歌上げと称する歌の名手が集まって掛け合いで歌ったり、唄で問答したり、あるいは新しい唄を発表したりする「掛け唄」である『玄如(げんじょ)節』の一節

 

♪ ハァー 会津磐梯 宝の山でヨー(サアサ ヨイヤ ショーエー)

笹に黄金がなり下がるヨー(ハァー なり下がるヨー)

笹に黄金がなり下がるヨー(サアサ ヨイヤ ショーエー) ♪

から盆踊り歌として転用されたものだそうだ。

 

 このように、小唄勝太郎の唄は元の歌詞より大きく異なっていたため、福島県の民謡「玄如節」「会津磐梯山」「会津大津絵」の普及に努めていた山内磐水(やまうちばんすい:明治23年10月23日~昭和32年8月23日)らによって、「気狂踊り」風の節回しが広まります。この唄は本来の「会津磐梯山」に近い正当なものであることを示すために正調会津磐梯山」(会津盆踊り唄)と呼ばれています。

 

 

■「正調会津磐梯山」の歌詞の一部(数字は集録歌詞番号)

 この「正調会津磐梯山」は、平成8年に出版された「会津の民俗芸能」では全179番まで存在し、現在知られている「会津磐梯山は宝の山よ」という歌詞は「正調会津磐梯山」の歌詞では下記21番に当たります。その一部を紹介します。
 

会津若松鶴ヶ城

 

7  ♪揃ろた揃ろたよ 踊り子が揃ろた 稲の出穂より よく揃ろた

15 ♪唄は櫓に 冴えゆくばかり 森で二人は 泣くばかり

21 ♪会津磐梯山 宝の山よ 笹に黄金が なりさがる

24 ♪会津磐梯山は お洒落な山よ 湖水鏡に 化粧する

25 ♪会津磐梯山に 振り袖着せて 奈良の大仏 婿にとる

31 ♪稲荷原から お嫁をもろて 抱いて寝たれば 石火箱

41 ♪雪をまるめて お雪とつけて 抱いて寝たれば 皆融けた

49 ♪声はすれども 姿が見えぬ ほんに貴方は 屁のようだ

51 ♪国を出るとき 褌(ふんどし)忘れ 長の道中を ぶらぶらと

55 ♪今年しゃ豊年 穂に穂が咲いて 道の小草に 米がなる

70 ♪丸い卵も 切りようじゃ四角 物も言いようで 角がたつ

71 ♪一夜々々に 枕が変わる 枕変わらぬ 妻ほしい

75 ♪何をくよくよ 川端柳 水の流れを 見て暮らす

83 ♪立てば芍薬 座れば牡丹 歩む姿は 百合の花

99 ♪親の意見と なすびの花は 千に一つの 無駄がない

101 ♪人の恋路を 邪魔する奴は 犬に噛まれて 死ねばよい

125 ♪俺と行かぬか あの山越えて 落ち葉布団で 寝てみたい

135 ♪妻と定めて 一夜も早く 枕揃えて 寝てみたい

136 ♪おらのカカアは 洗濯まめで 夜の夜中に 竿探す

146 ♪あまりのしたさで 墓場でしたら 仏ばかりで 神がない

161 ♪どうせ惚れるなら 大工さんに惚れろ 鉋(かんな)かけたよな 子ができる

171 ♪東山から 日にちの便り 行かじゃなるまい 顔見せに

178 ♪音に聞こえし 飯盛山で 花と散りにし 白虎隊

179 ♪忠義一途の あの稚児桜 散りてその名も 白虎隊

 

 民謡は自然発生的に唄われてきたものだけに,ほかの民謡にも唄われているものやどこかで聞いたことのある歌詞も見られ、飾り気のない言葉に、村人のパワーやエロスを感じさせられます。

 

■唄の由来

『越後甚句』が阿賀野川沿いに若松街道(陸奥国の会津若松と越後国の新発田を結び、越後国新発田側からは会津街道または若松街道と呼ばれる。一方、陸奥国会津側からは越後街道と呼ばれ、新発田藩と村上藩が参勤交代に利用していた街道。)経由で会津へ持ち込まれ、盆踊り唄として利用されたとする説。

 

『福島県民謡全集』によると,「会津磐梯山」の唄は明治初年ころに越後の五ヶ浜(今の新潟県西蒲原郡:旧巻町の大部分、旧西川町のほぼ全域、旧岩室村の全域、旧潟東村の全域、旧中之口村のほぼ全域で構成)あたりから来た油締め職人が,会津若松市を訪ずれたときに歌い踊った巻町の民謡「五ヶ浜甚句」が元になったとする説。

その歌詞は

♪ 揃うたエー揃うたよ 踊り子が揃うたナ(ハァヨシターナ ヨシタナ) どこの親衆がエーイヨ揃わせて

  <ハァー踊らぬ奴は 助平の大将と言ってたも知らぬで 腹チャンコ持ちゃげて ドッコイサット ドッコイショット> ♪

 

〇会津七日町(現在の会津若松市七日町)の阿弥陀寺で唄い踊られていた会津民謡「玄如節」が盆踊り節として転用されたものであるとする説。

 その歌詞は

♪ ハァー会津磐梯 宝の山で 笹に黄金が なり下がるヨー ♪

 

 

■『会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金が成り下がる』の意味由来

〇飢饉の時に笹に黄金の実がついたという説。

〇黄金色のクマ笹の実のことを唄ったという説。

〇笹の根もとに黄金の鉱石、または小判が埋蔵されていることを唄ったという説。

〇磐梯山の周辺は気候が良いので作物が豊富に収穫できるという説。

〇磐梯山から鉱石、とりわけ砂鉄が産出されるという説。

〇徳川幕府の埋蔵金伝説という説。

 

■小原庄助とは誰のこと

 歌詞中には「小原庄助」なる人物が、「朝寝・朝酒・朝湯が大好きでそれで身上潰した」とあるが、モデルとなった人物については、下記の通り諸説ありはっきりしないようだ。

 

〇信州・高遠藩の保科正之(会津松平家初代藩主で徳川2代将軍徳川秀忠の4男:庶子)が会津移封になったときに、長野県伊那市高遠町小原地区から一緒に連れて来られた家臣の末裔とされる説。

 

〇白河市の皇徳寺に小原庄助のモデルと伝えられる「会津塗師久五郎」(~1858年:安政5年7月24日没)の墓があり、久五郎は会津藩領大原新田村(現:猪苗代町)の人物で、大酒飲みであったとする説。

 

〇元禄(げんろく)時代に材木で大儲けした材木問屋という説。

 

〇戊辰戦争に会津方の一員として参加した人物とする説。

 会津若松市の秀安寺には戊辰戦争に参加し、1868年(慶応4年)9月5日に戦死した「小原庄助」という人物の過去帳が残されているという。

 

■磐梯山(ばんだいさん)

 古くは病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま)とも呼ばれた磐梯山(ばんだいさん)は福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯町、北塩原村にまたがる会津地方の象徴となる山である。

 元は「(磐)いわ(梯)はし(山)やま」と読み、「天に掛かる岩の梯子」の意味がある。

 磐梯山は、猪苗代湖の北にそびえる活火山で、標高は約1,816m。

 会津盆地側からは、綺麗な三角の頂が見えることから会津富士(あいづふじ)、あるいは民謡にあるように会津磐梯山(あいづばんだいさん)とも呼ばれ、日本百名山に選定されており、福島県のシンボルの一つとされている。

 

 2007年には日本の地質百選に選定され、2011年には日本ジオパークに認定された。磐梯高原を含めて磐梯朝日国立公園に属する。

 

■福島県

 面積は北海道、岩手県に次ぐ全国3位。

 県内は南北方向に延びる山脈・山地によって、3地域に分けられている。

 

〇県の西部に位置し越後山脈と奥羽山脈とに挟まれた日本海側内陸にあって4割弱の面積に約13%の人口を擁する「会津地域」

〇県の中央部に位置し奥羽山脈と阿武隈高地とに挟まれた太平洋側内陸にあって4割弱の面積に約62%の人口を擁する「中通り地域」

〇県の東部に位置し阿武隈高地と太平洋とに挟まれた太平洋側沿岸にあって2割強の面積に約25%の人口を擁する「浜通り地域」である。

県庁所在地の福島市は、東京から約270km、JR東北新幹線で約90分の位置にある。

 

■車両で直接行き来できない都道府県境

〇ここ福島県と群馬県は隣接しており、県境に会津沼田街道が存在するが、中間にある尾瀬の環境保護の面から自動車道の建設が中止されたため、車両で直接行き来できない(徒歩でのみ往来可能である)県境である。

〇もう一つは、富山・長野県境は地形的にあまりにも険しく、非常に山奥であるため、歩道も含め直結道が一切存在せず、北アルプスを貫き富山と長野を結ぶ山岳観光ルートであるアルペンルートを使ってのみ越境可能である。

 この県境二つは車両で行き来ができない数少ない県境となっている。
 

■会津家訓(かきん)15か条と什(じゅう)の掟

 1651年(慶安4年)徳川2代将軍秀忠の次男で、3代将軍家光の見舞いに来た家光の異母弟である会津藩祖保科正之に対し、家光は「肥後よ、宗家を頼みおく」(正之よ 息子家綱:4代将軍を頼むぞ)と遺言します。

 感銘した保科正之は、1668年(寛文8年)4月11日、徳川家に忠義を尽くすことを藩の方針として、下記のような15か条の家訓を作ります。

  正之の子孫の会津松平家はこの家訓を幕末まで会津藩の精神的な支えとします。
 

出典ウキペディア 松平容保.京都守護職時代に撮影されたもの。

 

■家訓15か条(会津藩では「かくん」ではなく「かきん」と呼びます)

1,大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処(よ)るべからず。若し二心を懐(いだ)かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。

 (徳川将軍家には一心に忠義に励むべきで、諸藩と同じ程度の忠義で満足してはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主が現れたならば、そんな者は我が子孫ではないから、決して従ってはならない。)

 

2,武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。

 (武の備えを怠ってはいけない。武士であることを本分とすべきである。上下関係を乱してはならない。)

 

3,兄を敬い、弟を愛すべし。

 (兄へは尊敬の念を抱き、弟へは敬愛の念を抱いて接しなければならない。)

 

4,婦人女子の言、一切聞くべからず。

 (妻女に政治への口出しをさせてはならない。)

 

 陸奥国会津藩9代藩主松平容保(まつだいら かたもり)と後妻(継室)正室である於万の方(聖光院)に生まれた長女の媛姫(はるひめ)(1641年 - 1658年)は、出羽国米沢藩15万石、3代藩主上杉綱勝の正室として嫁ぎます。

 その後、松平容保の側室牛田氏(1623年 - 1651年)の四女摩須姫(ますひめ)(1648年 - 1666年)が、加賀藩102万2千7百石 4代藩主前田綱紀の正室として嫁ぐことになります。

 於万の方は、側室の産んだ摩須姫が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、摩須姫の嫁入り前のお祝いの席で、お膳に毒を盛ったとされています。

 

 会津藩の正史『会津藩家世実紀』では「松姫の婚礼で実家へ里帰りしていた媛姫の具合が悪くなり婚礼の2日後に亡くなった」とあり、その後に本文への小文字補填として、「毒が入った松姫の御膳がお付きの者の機転で取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだと伝わっている」とあります。

 これに激怒した保科正之公は、10年後に定めた家訓の中に、件(くだん)の条文を入れたと言われています。

 『会津藩家世実紀』ではその後、媛姫は急病死とされ、保科家・上杉家とも一切捜査も処分もされた形跡がなく、また、お万の方はその後も正之の正妻として同じ屋敷に住み、正之の死後、聖光院と名のってからも2代藩主・正経の生母として絶大な影響力を保ったと伝わります。

 

5,主を重んじ法を畏(おそれ)るべし。

 (藩主を重んじ、法をかしこまって敬わなければならない。)

 

6,家中風義を励むべし。

 (風紀や行儀作法を正しく保つよう励まなければならない。)

 

7,賄(まかない)を行い、媚(こび)を求むべからず。

 (賄賂やこびへつらいをしてはならない。)

 

8,面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず。

 (誰であっても、依怙贔屓してはならない。)

 

9,士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず。

 (武士を選ぶにあたり、心のねじ曲がった者を採用してはならない。)

 

10,賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し、出位の者あらば、これを厳格にすべし。

 (賞罰の決定には家老以外を参加させてはならない。その地位でない者があれば、これを厳格に運用しなければならない)。

 

11,近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。

 (主君の側近く仕える者を使って、人の善悪を告げさせてはならない。)

 

12,政事は利害を以って道理を枉(ま)ぐべからず。僉議(せんぎ)は私意を挟みて人言を拒(ふさ)むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖(いえど)も我意を介すべからず。

 (政治は利害関係を持ち出して道理を曲げてはならない。会議では、私情を挟んで人が意見を言うことを拒んではならない。思うところは包み隠さず議論すべきであるが、どんなに争っても私情を挟んではならない。)

 

13,法を犯す者は宥(ゆう)すべからず。

 (法を犯す者を許してはならない。)

 

14,社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓(う)うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。

 (社倉は民のためにあり、未来永劫の利益のためのものである。凶作で民が飢えた場合にこれを使って救うものであって、他の場合に用いてはならない。)

 

15,若し、志(こころざし)を失い、遊楽を好み、馳奢(ちしゃ)を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴(いただ)き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居(ちっきょ)すべし。

 (もし藩主としての志を失い、遊び惚け、贅沢して、藩士や民を路頭に迷わせるようなことになれば、何の面目があって領地をいただくことができようか。必ず藩主を辞し、蟄居しなければならない。)

 

右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり

と結ぶ。

出典ウキペディア「保科正之像」

 

什(じゅう)の掟

 会津藩士の子弟は、6歳になると「什(じゅう)」と呼ばれるグループに入ります。この「什」とは、町内の6歳~9歳の子供たちが、 9歳の什長を中心に10人前後集まって構成される集団のことで、10個の掟があるわけではありません。

 「什」は毎日午後から当番の家に集まり集団で活動しますが、最後に什長が「什の掟」を話しながら 「ならぬことはならぬものです」で締めくくります。
 

〇年長者の言うことに背いてはなりませぬ

〇年長者には御辞儀をしなければなりませぬ

〇虚言をいふ事はなりませぬ

〇卑怯な振舞をしてはなりませぬ

〇弱い者を虐めてはなりませぬ

〇戸外で物を食べてはなりませぬ

〇戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

『ならぬことはならぬものです』というこの言葉は否定的なものではなく、『やらなければならないことは、やらなくてはならない』『やってはならないことは、やってはならない』という意味になります。

 

■会津の名の由来

〇記紀の記述には、崇神天皇(すじんてんのう)が北陸道に遣わした大彦命(おおひこのみこと)と東海道に遣わした建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)が、日本海側と太平洋側から遠征して出会ったのが相津(あいづ)だったという記述があり、この相津が後に会津と表記されるようになったとする説。

〇会津盆地でいくつかの川が合流するために舟運の拠点として会津と呼ばれるようになったとする説。

〇日本海側と太平洋側の物産を運ぶ隊商が会津盆地で取引をするために会津と呼ばれるようになったとする説。

 

唄は続きます。
 

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小原庄助さん 何で身上潰した 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで それで身上潰した

ハァ モットモダー モットモダ

♪ >>

 

『朝によし 昼になおよし晩によし 飯前飯後 その間もよし』

(伝小原庄助と考えられる会津塗師 久五郎の辞世の句より)