ここ宮城県にも「秋の山唄」「石投げ甚句」「石巻茶摘唄」「石巻港節」「石巻船頭唄」「稲上げ唄」「えんころ節」「おいとこ節」「お立ち酒」「小野田甚句」「笠野浜甚句」「北上川船頭唄」「きのこ採り唄」「畔打ち唄」「御祝」「古調えんころ節」「米節」「斉太郎節」「嵯峨立甚句」「坂元おけさ」「さんさ時雨」「塩釜甚句」「新さんさ時雨」「十三浜甚句」「定義節」「摺臼(するす)挽き唄」「銭吹き唄」「仙台煤はき唄」「仙台節」「仙台松坂」「仙台めでた」「仙北麦搗(つ)唄」「線路搗き固め音頭」「大漁唄い込み」「田ならし唄」「遠島甚句」「どや節」「なんとしょ節」「長持唄」「夏の山唄」「萩刈り唄」「浜甚句」「豊年こいこい節」「宮城在郷節」「宮城田植え唄」「宮城田ならし唄」「宮城野盆唄」「宮城餅掲き唄」「宮城馬子唄」「文字甚句」「閖上(ゆりあげ)大漁節」「涌谷お茶屋節」などたくさんの民謡が採譜されている。

 

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さんさ時雨か 萱野の雨か(ハァ ヤートーヤートー

音もせで来て 濡れかかる

「ションガイナ」(ハァ メデタイメデタイ)

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と唄われる「さんさ時雨」は、令制国で、陸奥国(むつのくに)の宮城県内は勿論、旧仙台藩の福島、岩手、出羽国山形県の一部でも唄われている祝い唄で、新築祝いや婚礼などのおめでたい席では必ずといっていいほど唄われ、筑前国(福岡)・黒田藩の「黒田節」に匹敵するともいわれる格調の高い唄のひとつである。

 

 

 

 また、出羽国(羽後秋田、羽前山形)と陸奥国(陸奥青森、陸中岩手、陸前宮城、磐城・岩代福島)の戦国大名であった伊達氏の第17代当主で、仙台藩の初代藩主「伊達政宗」が1589年(天正17)6月、猪苗代湖付近の「摺上原(すりあげはら)の戦い」で、陸奥会津郡、福島県西部、新潟県、栃木県の一部を領していた会津の蘆名(あしな)義広に勝利した時の唄ともいわれている。

 

 もともとは、手拍子だけで唄われており、三味線の伴奏がつくようになったのは明治以降だと伝わっています。

 

伊達政宗

 

■唄の成立諸説

〇陸奥国仙台藩最後の藩主となった第13代藩主で伊達氏29代当主伊達慶邦(だて よしくに:1825年10月17日~1874年7月12日)の随筆「やくたい草」では、仙台藩初代藩主伊達政宗の徳を時雨に擬して歌い始めたものと記しているとする説。

 

1467年~1590年室町時代のはやり唄として、中国・四国地方、特に、瀬戸内海地区で広く歌われた古風な「口説」調の唄に「さんさ小島」という盆踊り唄があり、それが四国宇和島に渡って宇和島さんさ(諸共節)となり、京阪神地方に歌い継がれて仙台まで伝わったとする説。

 

出典ウキペディア「摺上原の戦いの図」

 

1589年(天正17年)、出羽米沢の伊達政宗(1584年:天正12年家督を継ぐ)軍は磐梯山(ばんだいさん)裾野の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で会津の蘆名義広軍(耶麻郡、河沼郡、大沼郡、会津郡、二本松、郡山、三春、須賀川、白河、相馬を支配して石高120万石、5万6千人の軍団を擁する戦国大名)と合戦。

この合戦で伊達政宗は大勝し、このとき謳われたとする説。

その句とは

「音もせで 茅野の夜の時雨来て 袖にさんさと 降りかかるらむ」

(陸奥国亘理城主、後、遠田・湧谷城主の亘理重宗:わたりしげむね)

 

「音もなく 松にあらしのはこびきて 萱野のしぐれ ぬれかかるらむ」

(亘理伊達家初代当主伊達成実:だてしげざね))。

 

 しかし、戦勝を匂わせる歌詞がないことと、負けて恨みをもつ福島県会津地方で、敵である伊達氏の凱歌が祝い唄として唄い継がれるはずがないという否定的な見解も見受けられる。

 

1614年(慶長19年)、大坂の役(冬の陣)における功労で伊達氏は伊予(現在の愛媛県)宇和郡に領地を賜り、伊達政宗の長男秀宗が宇和島藩の初代藩主となります

江戸中期に瀬戸内海沿岸で広まっていた流行唄が、この宇和島藩経由で伝わったという説。

 

〇「源貞氏耳袋:みなもと さだうじ みみぶくろ」(東北大学附属図書館蔵 11巻吉田正志 監修「源貞氏耳袋」刊行会編)では「さんさ時雨」は大坂の陣(1614年慶長19年の大坂冬の陣と、1615年慶長20年の大坂夏の陣)以後仙台で流行り、祝儀の席上で唄われるようになったとする説。

 

1624年から1688年に「さんさ時雨」の基になったと考えられる唄に、三重県の民謡「さんさ節」、1661年頃流行った「しょうがえ節」などが窺えるとする説。

 

1730年(享保15年)には流行していたとする説。

東北大学図書館蔵の「源貞氏耳袋 13巻」の12巻の105番に「さんさしぐれの事」があり、1805年(文化2年)に83歳の老人が6~7歳の時に流行したとある、を根拠とする。

 

1822年に刊行された「浮かれ草」に「下の関節」として、「さんさ時雨か、萱野の雨か、音もせで来て、濡れかかる。しょんがえ」と見えるとする説。

 

■曲名や歌詞にある「さんさ」の意味諸説

〇時雨が少々(ささ)と降る音から来たとする説。

〇殿様が大いに喜び、「さぁさ踊れ」といった時の「さぁさ」が「さんさ」に転化したとする説。

〇笹を持って踊ったササ踊りから、笹がなまって「さんさ」となったとする説。

〇昔、この地に「羅刹」という名の鬼が棲んでおり、悪事の限りを行っていた。困り果てた村人が崇拝していた「三石様」という自然石に祈願したところ、三石権現の加護により鬼がこの石に縛り付けられました。

 鬼は神聖な威力に恐れをなし、二度とこの地に現れないと誓い、この巨石に自分の手形を押して立ち去ります。鬼が岩に手形を押したということで、「岩手」と呼ばれるようになったのだとか。

 岩手盛岡を代表する「さんさ踊り」の由来も、鬼がこの地を去った際、老若男女が里の平安を喜ぶあまり、欣喜雀躍して参差(さんさ)入り乱れて踊り狂ったという。これが「参差踊り」の始まりだとする説。

〇さんさ踊りは本来三十三の踊りがあって、三十三(さんさ)と言われたとする説。

「サンサヨー」という囃子言葉からきたとする説。

 

■ションガイナの意味諸説

〇「ああそうかいな」「それからどうした」などの軽い合いの手とする説。

「勝凱な」という意味をあてているとする説。

 

■唄い方

 難しいのは、1フレーズの息が長いこと。途中で息切れして盗み息して、フレーズの勢いを削いでしまわないよう、ペース配分に留意が必要。

 私が大学生の頃、新宿の大きな郵便局でアルバイトをしていた時、守衛室の年配者から教えていただいた唄の一つでしたが、一言「ご詠歌にならないように」と注意をいただいたことを思い出します。

 

松島

 

■宮城県

 県内には流路延長249㎞の北上川や同239㎞の阿武隈川といった大河が貫流して流域に仙台平野が広がっている。

 東は太平洋に面し、県中部にある松島は多島海の景勝地で『京都府の天橋立』『広島県の宮島』とともに日本三景の一つに数えられている。

 また、東北地方の三陸沖は寒流である親潮と暖流である黒潮の潮境で、世界的にも有数の漁場である。これに近い宮城県には多数の漁港があり、中でも気仙沼漁港、石巻漁港、塩釜漁港は特定第3種漁港*に指定されており、1県に3か所の特定第3種漁港を持つ県は宮城県が唯一である。

 カツオ、サンマ、マグロ、カジキなど多種の魚がこれらの港で水揚げされるほか、ワカメやノリ、カキ、ホタテガイ、ホヤ、ギンザケの養殖が行われている。

 

*利用範囲が全国的な漁港のうち特に重要であると政令で定められた漁港のことを特定第3種漁港といい、日本国内2,914の漁港のうち特定第3種漁港は13港のみ。しかしその漁獲量は全体の30%を占めている。

13港とは八戸、気仙沼、石巻、塩釜、銚子、三崎、焼津、境、浜田、下関、博多、長崎、枕崎の各漁港。

 

仙台市博物館蔵 伊達政宗公上半身像

 

■伊達氏のこと

 現在の宮城県の領域は、古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、後に陸奥国府と鎮守府である多賀城(宮城県多賀城市)が置かれます。

 中世には大崎氏や葛西氏、留守氏、国分氏などが割拠しましたが、1589年(天正17年)伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市)を経て1601年(慶長6年)仙台城(宮城県仙台市青葉区)を築き仙台藩の基とし、江戸期を通じ、61万5千石~62万石~62万5千6百石~28万石でここを治めます。

 

 伊達政宗は、豊臣氏や徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に仙台城を構えます。1601年(慶長5年)12月24日に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始します。

 伊達氏は伊達郡(陸奥国・福島県岩代国)から置賜郡(米沢)、岩出山、仙台と家臣団や寺社、職人集団を引き連れて移動したため、仙台城下の町や寺社、旧家、職人の家系には、伊達郡を起源とするものが多かったといわれています。

 伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、下記のように東北の雄藩でした。

 

なお、明治維新まで、伊達氏の公式な読みは「いだて」であり、江戸時代に、「いだて」または「いだち」から「だて」へと読みが変遷したと思われます。

 

 因みに、1614 年(慶長19年)、1688 年(元禄元年)、1813年(文化10年)、1865年(慶応元年)当時の陸奥の国の石高トップ3は藩主、石高は次の通りでした。

 

〇仙台藩(大広間詰め、外様)

伊達政宗615千石、伊達綱村62万石、伊達斉宗62万5千6百石、伊達慶邦同左。

 

〇会津藩(溜りの間詰め、容保は血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。御三家)

 蒲生忠郷60万石、松平正信23万石、松平容衆23万石、松平容保18万石。

 

〇盛岡藩(大広間詰め、外様)

南部利直10万石、南部重信10万石、南部利敬20万石、南部利剛20万石。

 

出典:ウキペディア「伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃)」

 

■伊達政宗の一生概略

 1567年(永禄十年)8月3日奥州米沢城主・伊達輝宗と義姫の嫡男として出生。 

 義姫が文武両道の優れた武将になる子供を授けてくださいと湯殿山に祈ったところ、ある夜「あなたの胎内に宿りたい」と白髪の僧が枕元に現れ、まもなく生まれたのが政宗であったと伝わる。             

 1577年(天正五年)11歳に元服し、伊達政宗を名乗る。

 1581年(天正五年) 15歳に父・輝宗に従い相馬攻めで初陣を果たす。

 1584年(天正十二年) 17歳に父・輝宗より家督を受け継ぐ。

 1589年(天正十七年) 23歳「摺上原の戦い」で蘆名氏を倒す。

 1590年(天正十八年) 24歳、6月9日「小田原の戦い」で 小田原城攻めをしていた豊臣秀吉の陣に百騎程度の小勢を従え到着したが面会を断られ、箱根山・底倉の宿に押し込まれる。

 そこへ 前田利家・浅野長吉が 詰問使としてやってくる。

 政宗は遅参の理由をのべ、さらには 千利休に茶の指導を してもらいたいと願い出る。

 1590年6月13日に初めて秀吉と謁見できる。政宗はあえて白の死装束で現れます。

 秀吉はご機嫌な様子で政宗を前に呼び出し、「愛いやつじゃ。まだ若者だがちょうどよいところに来た。もう少し遅く来たなら・・」と政宗の首筋を杖で軽く叩きながら「ここが危なかった」と言い政宗を許したという。

 1591年(天正十九年) 25歳の時、豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主の木村吉清・清久父子に対する反乱・一揆を煽ったと責められ、弁解のため京都へ行く。この時は白装束に金箔貼りの磔柱を先頭に立て京都を練り歩いたという。

 1602年(慶長七年) 36歳の時仙台城に移り住む。

 1611年(慶長十六年) 44歳の時イスパニア大使・セバスチアン・ビスカイノが来日。

彼は政宗を「皇帝に次ぐ者」と称していた。

 1613年(慶長十八年) 47歳の時「鎖国令」が出される前に黒船サン・ファン・バプチスタ号を造り、支倉常長ら家臣と積荷をノビスパニアへ送る。

 1614年(慶長十九年) 48歳の時大坂冬の陣に参戦。

 1615年(元和元年) 49歳の時大坂夏の陣に参戦。その大阪城突撃の際、「神保隊が崩れかかってきたので、共崩れを避けるために撃った。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と弁明し(『大坂夏陣推察記』、前にいて邪魔だという理由で味方の神保隊を皆殺しにしている。

 1636年(寛永十三年) 70歳の時2月頃から体調が悪化。

 同年4月20日、嫡子・伊達忠宗に後事を託し、病をおして仙台から江戸へと向かう。

 同年5月1日、江戸城で将軍・徳川家光に拝謁したが、家光は政宗の病状を気遣い、京都から医者を呼び寄せ祈祷をさせる。

 同年5月21日、家光が政宗の養生先・伊達屋敷へ見舞いに行くと政宗の胴まわりは1m20cmくらいに膨れていたという。

 同年5月23日、正室・愛姫に遺言状と形見が渡るように手配。

 同年5月24日の朝方、江戸の伊達屋敷で死亡。死因は持病の癌性の腹膜炎とされ、また、食事後によくむせていたので食道がんという説もある。

 

■陸奥の国の概略

 

■11世紀半ば(1001~1100年の内1050年頃)

 北上平野の俘囚の奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立。安倍頼時・貞任討伐の命を受けた河内源氏二代目棟梁源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り苦戦。仙北の俘囚清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことができました。

(前九年の役)

 

■鎌倉時代

 伊達氏は1189年(文治5年)7月から9月にかけて、大庭景義の「軍中には将の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言をうけ、「奥州藤原氏が朝敵の義経を匿っていたことは重罪だ!」と決めつけ、源頼朝の鎌倉政権と奥州藤原氏(藤原秀衡)との間で行われた一連の戦いである奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられ、伊達郡を中心に勢力を拡大します。

 

■戦国時代

 みなみ東北の奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、伊達郡・信夫郡(しのぶぐん)(福島盆地)と置賜郡(おきたまぐん、おきたまのこおり:出羽・羽前国山形県(米沢盆地)を本拠地とする伊達氏の軍門に下ります。

 

■安土桃山時代

 戦国大名の伊達政宗は常陸国の佐竹義重や会津地方の蘆名氏らに勝利し、領土を拡大して奥羽に150万石近い大領国を築いていましたが、秀吉の奥州仕置(摺上原の戦いで蘆名氏を破り、政宗自身が小田原に遅参したことに加え、会津攻めそのものが秀吉の惣無事令に違反していたことなどを理由)により、会津四郡、岩瀬郡、安積郡を没収され、陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封され、征服した会津地方などを奪い取られます。

 秀吉の死後、政宗は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の会津征伐で家康に協力します。

 その後、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、仙台城下は奥州一の都会となり、江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻は江戸(東京都区部)との交易で栄えます。

 

■幕末

 仙台藩は幕府の命令で会津藩や庄内藩などの東北諸藩とともに北海道の警護を担当します。仙台藩の警衛地と領地は北海道の約3分の1を占めたといわれています。

 1868年~1869年(慶応4年/明治元年 - 明治2年)にはいると、戊辰戦争で仙台藩が奥羽越列藩同盟を結成し明治新政府と戦うことになります。このころ、陸奥国が分割され、仙台藩は陸前国全域と、陸中・磐城国の一部になります。

伊達氏の北海道開拓「伊達市」入植地図

 

 奥羽越列藩同盟は薩摩藩と長州藩を主力とする明治新政府軍に敗れ、仙台藩は石高を28万石にまで減らされます。このとき、秩禄が減って困窮した家臣団を救うために、仙台藩は蝦夷地(北海道)への入植を行い、仙台藩は明治新政府と共同で札幌市を開拓したほか、単独で北海道の伊達市などを開拓します。

 

■仙台の方言ご存知ですか、理解できますか?

 仙台地方の方言、ご年配の方なら意味が理解できるでしょうが、あなたは、いくつわかりましたでしょうか?

 

1,「おらいさあばいん!」

2,「あんだあっぺとっぺなことばり かだってんな」

3,「おめぇとくとうがおってやぁあんべぇ大丈夫か?」

4,「いしけん、ぎっ」 

5,「いづぬさんすごぅろぐすづはづくぅづ」

6,「おだつなよっ! この!!」

7,「おらいのおっぴばんつぁんとくとう体あんべぇいくて来月で90歳なっとわ」

8.「ま〜だ先生さごしゃかったや〜いぎなりがおった。」

9,「おめぇてほすたごどや人にかつけるんでねぇ!!」 

 

唄は続きます。

 

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この家座敷は 目出度い座敷(ハァ ヤートーヤートー   )

 鶴と亀とが 舞い遊ぶ「「ションガイナ」

(ハァ メデタイメデタイ)

 

雉のめんどり 小松の下で(ハァ ヤートーヤートー   )

  夫(つま)を呼ぶ声 千代千代と「ションガイナ」

(ハァ メデタイメデタイ)

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■方言の回答(読みやすくなるよう句読点を付けてみました)

1,「おらいさ、あばいん!」(私の家においで!)

2,「あんだ、あっぺとっぺなことばり、かだってんな。」(あなたいつもでたらめなことをいってますよね。)

3,「おめぇ、とくとう、がおってやぁ、あんべぇ大丈夫か?」(お前、ものすごく疲れて、体調は大丈夫か?)

4,「いしけん、ぎっ」(じゃんけん、ぽんっ)

5,「いづ、ぬ、さん、す、ごぅ、ろぐ、 すづ、はづ、くぅ、づ」(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)

6,「おだつなよっ! この!!」(ふざけんな! てめぇ!!) 

7,「おらいの、おっぴばんつぁん、とくとう、体あんべぇいくて、来月で90歳、なっとわ」(うちのひいお婆さん、ものすごく体調良くて、来月で90歳になります。)

9,「ま〜だ、先生さ、ごしゃかったや〜。いぎなり、がおった。」(また先生に怒られた。とても気が滅入った)

10「おめぇ、てほすたごどや、人に、かつけるんでねぇ!!」 (お前、デタラメしたことを、人のせいにするな!!)

 

 

「おみょうにちおしずかに」(明日もよい日でありますように)