ここ山形県にも「あがらしゃれ」「左沢木挽唄」「いざや巻」「石切り唄」「大沢おばこ」「置賜(おきたま)しょうがいな」「置賜酒屋米とぎ唄」「置賜炭焼き唄」「置賜(おきたま)長持唄」「かくま刈り唄」「菊と桔梗」「木場の木流し唄」「酒田追分」「酒田甚句」「酒田船方節」「酒屋米とぎ唄」「七階節」「しょうがいな」「庄内草刈唄」「しょんでこ節」「庄内おばこ」「庄内土搗(つ)き唄」「庄内はいや」「新庄節」「新花笠音頭」「大黒舞い」「出羽人形ばやし」「百目木甚句」「花笠音頭」「土門おぱこ」「羽根沢節」「東根三階節」「紅花染め唄」「紅花摘み唄」「豊年祝い唄」「真室川音頭」「豆ひき唄」「昔おばこ」「村山おばこ」「村山松坂」「村山馬喰(ばくろう)節」「最上おばこ」「最上船頭唄」「最上川舟唄」「もみすり唄」「山形飴売節」「山形大津絵」「山形金堀り唄」「山形木挽き唄」「山形桑摘み唄」「山形大黒舞」「山形タント節」「山形馬喰(ばくろう)節」「山形盆唄」「山形馬子唄」「山形松坂」「山寺石切り唄」「山寺音頭」「米沢おばこ」など、たくさんの民謡が採譜されている。

 

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目出度目出度の 若松様よ 枝も (チョイチョイ)

栄えて 葉も茂る (ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

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と唄い、踊られる花笠音頭は「青森ねぶた祭」「秋田竿燈祭」「仙台七夕祭」などと共に『東北四大祭り』として有名で、これに「盛岡さんさ祭り」「福島わらじ祭り」が加わると『東北六大祭り』となります。

 

 

 

■『花笠まつり』

 この「花笠音頭」が唄われる『花笠まつり』は毎年8月5日~8月7日の3日間開催されます。

 

♪ 花の山形 紅葉の天童 雪を 眺むる 尾花沢 ♪

♪ 西の月山 おがんで今日は 東 蔵王の夏まつり ♪

 

 「花笠音頭」の歌詞は、一般公募された中から13歌詞を選定し、従来からあった2歌詞を加えた15歌詞で構成されており、上記のように、最上川沿いの地域の名所や名物を織り込み、グループごとに統一された衣装と、紅花をあしらった笠を巧みに操りながら群舞する姿は、勇壮な太鼓の響きと、威勢のいい「ヤッショ、マカショ」の掛け声とともに壮観である。

 

出典ウキペディア

 

■起源諸説

〇もともとは山形初代藩主最上義光を祭る義光祭(ぎこうさい)であったとする説。

〇明治・大正の頃、山形県村山地方で歌われていた「土突(どんつき)唄」が元唄とする説。

築堤工事の土搗き唄(どつきうた)とし、工事完成時の秋祭りにスゲ笠を手に持ち、土搗き唄にあわせて笠踊りが奉納されたとする説。

〇『花笠音頭(花笠踊り唄)』の歌詞で唄われる「♪目出度目出度の 若松様よ」のくだりは、江戸時代に大流行したお伊勢参りを通じて、民謡『伊勢音頭』の歌詞が山形に持ち帰られたものとする説。

〇土突作業をする時に調子を合わせるための作業唄に「渡り土方」が唄う船方節や八木節などがミックスされた土突き唄が「花笠音頭」だとする説。

〇「ヤッショ、マカショ」の囃子言葉は、最上川河口の港町酒田市の民謡「酒田舟方節」にもあり、それを取り入れたとする説。

 

 この土突き唄が昭和に入ると、現在の「花笠音頭」で用いられているような賑やかな伴奏の入った民謡に変遷し、「花笠音頭」または「花笠踊り唄」として広まりました。

 

出典:尾花沢市ホームページ 「築堤工事の様子」より

 

■尾花沢市にある徳良湖(とくらこ)築堤工事のこと

〇土突き作業にスゲ笠持参

 「土突き」とは、建築を行う前に地面を突いて固める作業のことをいいます。

1919年(大正8年)、米価の高騰が続き各地で開田事業が盛んに行われていた頃、地元の豪商で魚屋兼料亭を営んでいた「高宮常太郎(つねたろう)」により、東京ドーム1個分=約4.68haの49倍にあたる約230haの開田の貯水池として築堤が計画されます。

 工事は1919年(大正8年)9月に着工され、総工費19万5千円を投じて1921年(大正10年)5月に、周囲約2.7km、水深約5.6mの巨大な溜池が完成しました。

「日本円消費者物価計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html?amount=195000&cy1=1919&cy2=2019)に金額を投入すると、1919年の195,000円は、2019年の300,873,018円にあたるそうで(1543倍)、現在価値に直すと約3億円といったところでしょうか。

 

 この築堤にあたって、近隣の70余りの集落から17歳から20代の男女およそ7万人が従事したそうです。

全員が日除けや雨除けになるスゲ笠を持参し、男性はモッコを担いで土を運び、女性は土を固める土搗きを行いました。

 大きな土搗き石の重さは12~15kgにもなり、10~12本の綱を付けて綱を引っ張ったり、ゆるめたりの作業となります。

 この作業のとき、互いに調子を合せるために歌われたのが「土搗き唄」だそうです。

 

 徳良湖が完成した年の尾花沢本町諏訪神社の秋まつり(旧暦7月28日)の行列には、百人余りの男女が、諏訪神社の山車(だし)に飾られていた紅花の造花が付けられたスゲ笠を手に持ち、土搗き唄にあわせて笠踊りを奉納したといいます。 

 これが「花笠踊り」の誕生と伝わっています。

 

〇現在の徳良湖の観光レジャー

 現在の徳良湖では桜・新緑・紅葉・白鳥と四季折々の自然の姿を楽しめます。

 

 ここは、ハクチョウやカモの越冬地でもあり、コイ、フナ、ワカサギ等多種の淡水魚が生息しています。

 ローラー滑り台や木製遊具のある子ども広場やオートキャンプ場、グラウンドゴルフ場、日帰り温泉「花笠の湯」などの施設が充実していて、湖畔の遊歩道は1周2.8kmあり市民の絶好の散歩コースとなっています。

 例年GWに開かれる徳良湖まつりでは、マラソン大会やゴルフ大会、釣り大会などのイベントが開かれ、多くの家族連れで賑わっています。

 

 2010年(平成22年)3月25日、徳良池(徳良湖)は農林水産省の『ため池百選』に選定されました。

 

■「山形花笠まつり」の歴史

 土搗き唄に合わせて、笠を廻して即興で踊ったものが「花笠おどり」の原型とされたことはすでに述べましたが、現在では尾花沢市のみならず、山形県を代表する祭りのひとつとなっています。

 

 簡単に歴史を振り返ってみましょう。

〇現在のように賑やかな三味線と尺八、太鼓を入れて民謡化したのは昭和の初期の頃。

〇昭和38年

 1963年(昭和38年)、蔵王の観光開発とPRを目的にした「蔵王夏まつり」のイベントのひとつとして「花笠音頭パレード」が行われました。

〇昭和40年

 1965年(昭和40年)からは「山形花笠まつり」として単独で開催するようになりました。

〇昭和45年

 1970年(昭和45年)の大阪万博で、日本を代表する民族芸能の一つとして披露されると、「山形花笠まつり」の知名度は全国的に広がりました。

 

■花笠音頭

 「山形花笠まつり」といえば、なんといっても「花笠音頭」。

 夕方6時になると「ヤッショ、マカショ」という掛け声に合わせて、1万数千人の踊り手がパレードを行います。

 御祭神である蔵王権現を乗せた山車(だし)が先導し、全長約1.2kmを踊り子と様々な企業の山車がパレードをする姿は壮観です。

 

■花笠音頭の特徴

 その特徴は花笠と呼ばれる鮮やかな花の装飾がついた笠を使って踊ることです。

 尾花沢の花笠おどりは、築堤工事に従事した人達が「日よけ、雨よけ」のために被っていたと同じ大きさの笠を勢いよくダイナミックに廻す「笠廻し」が特徴で、躍動感あふれる踊りとなっています。
 

■笠の振り方4種

 また、笠の振り方にも当時の作業の様子が取り入れられて、次のような意味があるようです。

 

〇頭の上で笠を大きく回すのは、日差しや雨を除ける動作。

〇笠を両肩に担ぐのは、土を運ぶモッコを担ぐ動作や土搗き綱を引く動作。

〇左右に大きく笠を振るのは、あおいで風を送る動作。

〇足元で笠を回すのは、土を掘り起こし、土を掃う動作を表しているそうです。

 

■踊りの源流5流派

 尾花沢市には現在でも「上町(かんまち)流」「寺内(てらうち)流」「安久戸(あくと)流」「原田(はらだ)流」「名木沢(なきさわ)流」の5つ踊りが次のように継承されています。

 

上町流は力強く笠を持ち、体と笠のキレのある動きが特徴。男性的な踊りです。

寺内流は笠がくるくる舞っているような、スピード感と華麗さのある踊りです。

安久戸流は流最も原型を伝承しているといわれ、落ち着いた動きの踊りです。

原田流は小さく流れるような笠回しで、女性的なしなやかさのある踊りです。

名木沢流は笠回しがやわらかく、工夫たちの仕事の様子が感じられる踊りです。

 

■振付が4種

 この花笠音頭には振り付けが4種類存在します。

 その4種類とは「正調女踊り・薫風最上川」「正調男踊り・蔵王暁光」「笠回し系花笠踊り」「創作花笠踊り」のことです。

 

1:正調女踊り・薫風最上川(くんぷうもがみがわ)

 紅花摘みの作業歌がルーツであるとされているこの振り付けの特徴は、優雅かつ華麗であるところ。楚々とした動作であることから、女性の踊り手が主となり、花笠音頭の中で、最も一般的だとされる踊りです。

 

2:正調男踊り・蔵王暁光(ざおうぎょうこう)

 男性の踊り手が増加したことにより、豪快な動作も多く、大地をしっかりと踏みしめて踊る蔵王暁光。薫風最上川と同様に花笠音頭の標準振り付けとして制定されています。

 

3:笠回し系花笠踊り

 花笠踊り発祥の地、尾花沢地方がルーツの踊り。1919年当時と同じ大きさの日よけや雨よけの笠を勢いよく、ダイナミックに回す躍動感にあふれた踊りとなります。

 

4:創作花笠踊り

 上記の3つに加え、伝統的な花笠踊りを基に、ダンスを取り入れるなど、団体ごとに異なる趣向が凝らされています。

 

■山形県の繁栄

 令制国(りょうせいこく)では羽前国(うぜんのくに)は山形県の飽海郡(あくみぐん)と酒田市南部以外の山形県のほぼ全域にあたります。

 

山形県は

〇1600年代最上家:外様 57万石(1600年 - 1622年)~鳥居家:譜代 22万石→24万石(1622年 - 1636年)~保科家:親藩 20万石(1636年 - 1643年)~松平〔越前〕家:親藩 15万石 (1644年 - 1648年)~松平〔奥平〕家:親藩 15万石 (1648年 - 1668年)~奥平家:譜代 9万石 (1668年 - 1685年)~堀田家:譜代 10万石 (1685年 - 1686年)~松平〔越前〕家:親藩 9万石 (1686年 - 1692年)~松平〔奥平〕家:親藩 10万石 (1692年 - 1700年)

 

〇1700年代は堀田家:譜代 10万石 (1700年 - 1746年)~松平〔大給〕家:譜代 6万石 (1746年 - 1764年)~公儀御料(1764年 - 1767年)

 

〇1800年代は秋元家:譜代 6万石 (1767年 - 1845年)~水野家:譜代 5万石 (1845年 - 1870年)~天領(1870年 - 1871年 廃藩置県)

 

このように続きますが、外様の最上氏以外は親藩・譜代領主が頻繁に入れ替わり、領地も歴代領主の飛び地領などが入り組んで石高が減少するなど、大藩のような城下町的な文化は育たなかったようですが、紅花・漆・青麻の全国的な集散地として、また東日本一帯から多くの参拝者を集めた出羽三山(山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称)参詣の基地として繁栄します。

 

日本近海の海流

 

■酒田は東回り航路と西回り航路で繁栄

 最上義光の行った城下町の整備や、庄内地方の開墾、最上川の開削工事などのインフラ整備は、最上川の水運を一層盛んなものとし、後の時代の酒田を起点とした東回り航路西回り航路などが整備されるきっかけとなります。

 1672年(寛文12年)、江戸幕府が当時天領であった出羽の米を大坂まで効率良く大量輸送するため、河村瑞賢に命じたことがこの航路の起こりとされます。

 北前船で大阪と北海道を1往復すると、千両(今の価格で6,000万円~1億円)もの利益を得られたと言われています。

 北前船は米を1千石(150トン)積むことができる大きな船で千石船(せんごくせん)とも呼ばれていました。

一級品として名を馳せた出羽の紅花は、「紅一升、金一升」といわれるほど高値で取引され、お米と並び酒田の商人に多大な富を築かせたといわれています。

 

 

■東廻り航路

 1671年に河村瑞賢(ずいけん)が整備した東廻り航路とは出羽の酒田(山形)から秋田・青森へと、おおよそ2km/hの対馬海流の流れに沿って日本海を北上し、津軽海峡を越えてから太平洋側を南下し江戸へ向かうルートで、北から南へと流れる寒流の親潮(千島海流)と南から北へと流れる暖流の黒潮(日本海流)は東北地方沿岸の三陸沖でぶつかります。

 このあたりから北上する黒潮に逆らうように進むことになります。

 引き続き、銚子(千葉)から房総半島をまわり、相模の三崎・伊豆の下田を経由して、江戸へ入港するルートです。

 この東廻り航路を整備する前は、銚子(千葉)から川船に積み替え、利根川、江戸川を通って江戸に物資を運んでいました。因みに、東廻り航路は当初の出発地は荒浜(宮城)からでした。

 

*親潮は黒潮に比べ栄養分が豊富であることがその由来で、栄養分が豊富なので「魚を育てる親のような存在」ということで名付けられたということです。

*一方、黒潮の名前の由来はその名のとおり「青黒く見えるから」。黒潮は親潮とは対照的に栄養分が少ないために透明度が高く、青く黒く見えるそうです。

 

〇東回り航路のデメリット

 太平洋を南から北へ流れる黒潮は4km/h(大人が歩く速さ)~6km/h(大人の急ぎ足程度の速さ)で流れ、時には9km/hの流れが観測されることもあるそうです。

北へ向かって流れる黒潮に逆らって、江戸へ向かって南下していく航海が危険だったこと、江戸より北に「経済の発達した街」があまりなかったことなどが理由でした。
 

■西回り航路

 一方、1672年に河村瑞賢が整備した西回り航路とは出羽の酒田(山形)から日本海側を南下し下関(山口)・瀬戸内海を通って大阪へ向かうルートで、基点は酒田(山形)となっていました。(酒田から大阪へ向かう「上りルート」と大阪から酒田へ向かう「下りルート」あり)

 この西廻り航路を整備する前は、敦賀(福井)で船から積み荷を降ろし、その荷物を馬などに積み替え陸路で琵琶湖まで運び、琵琶湖から小型船に再び積み替え、淀川経由で大阪に入るルートでした。

 特に、西廻り航路で活躍したのが、北前船(きたまえぶね)でした。

 

出典ウキペディア北前船

 

〇北前船は買積み廻船と呼ばれた総合商社

 北前船は運賃で稼ぐのではなく、寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。さまざまな商材を取り扱って「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える買い積み方式(買積み廻船)が特徴でした。

 例を挙げると、航行する船主自体が北海道や東北で昆布や海産物を仕入れて、大阪で売り、大阪では船主自体が塩や酒を仕入れて他の港で売り捌きます。

 このように、多くの山形商人が紅花や米を運び、江戸や上方から様々な文化を山形藩に届けました。

 

■西回り航路が発展した理由

 日本海側は古くから航路が発達していて経済力のある良港がいくつもあったこと。

 冬の間以外は潮が2km/hと安定して航海しやすかったこと。

 波の穏やかな瀬戸内海を利用していたこと。

 天下の台所とよばれ、各地から物資が集まる商業都市大阪とつながっていたこと。 

 「■西回り航路」で述べたように積み替えにかかる労力と時間を短縮でき、荷物を安く運ぶことができたこと。

 

■北前船(1年上り下りの1航海の場合)

〇下り(対馬海流に対して順流、所用月数約2か月)

3月下旬頃、大阪を出帆。

4 - 5月、航路上の瀬戸内海・日本海で、途中商売をしながら北上。

5月下旬頃、蝦夷が島(北海道)に到着。

下りの積み荷は米や酒、砂糖、漁獲物の塩漬けに不可欠な瀬戸内海各地の塩、衣服や煙草、紙、瀬戸内沿岸産の蝋燭、縄や筵など。

 

〇上り(対馬海流に対して逆流、所用月数約3か月)

7月下旬頃、蝦夷が島を出帆。

8 - 10月、航路上の寄港地で商売をしながら南下。

11月上旬頃、大阪に到着。

上りの積み荷は商品作物栽培のための肥料、鰊粕、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。

北陸など各地の北前船の船員は、大阪から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻ってきたといわれています。

 

■酒田本間家(酒田本間氏は本間家(ほんまけ)と通称される)

 本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された大庄屋・豪商でした。

 北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となり、その財力を基礎に栄華を誇りましたが、起業・興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまりました。

 

■本間宗久(古作)1724年(享保9年)~1803年(享和3年)

 1724年、酒田の富豪「新潟屋」の本間久四郎原光(もとみつ)の三男として出羽庄内(現在の山形県酒田市)で生まれ、2代目当主光寿の弟。光寿の隠居後、3代目当主光丘の奉公修行中に当主代理を務めます。

 大坂の米相場では才能を発揮して「相場の神様」「出羽の天狗」と称され、その後は江戸で新潟屋の現物米とあわせて諸藩に貸付を行い莫大な財産を手にしたといいます。

 宗久は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支え、その活躍ぶりは、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る』『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』といった唄が流行るほどであったという。

 

真夏の熱い夜。

艶やかな花笠のうねり。

踊りで流す汗と笑顔。

 

唄は続きます。

 

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俺が在所に来て見やしゃんせ 米の (チョイチョイ)

なる木が お辞儀する (ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

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