ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 

 

<< ♪♪ 

ヤートーセ ヨーイワナーセッチャ(キタカサッサ ドッコイナ)

ホラ 時勢はどうでも 世間はなんでも 踊りコ 踊らんせ (アーソレソレ) 

日本開闢(かいびゃく) 天の岩戸も 踊りで夜が明けた

(キタカサッサ キタカサッサ ドッコイナ)  

♪ >>
 

 

 

と唄われる西馬音内盆踊り郡上踊り(ぐじょうおどり・岐阜県)、阿波踊り(徳島県)とともに「日本三大盆踊り」と呼ばれ、「毛馬内(けまない:秋田県鹿角市(かづのし)十和田毛馬内」、「一日市((ひといち:秋田県南秋田郡八郎潟町)」の各盆踊りとともに秋田県内の三大盆踊りとなっている。

 

 

西馬音内(にしもない)盆踊り

 

■踊りの由来

 1290年(正応3年)に沙門源親が現在の西馬音内御嶽神社に蔵王権現を勧請した際に境内で豊年を祈願するため踊ったものという。

 

 1593年(文禄2年)、西馬音内8代当主の西馬音内茂道の娘婿で、一族の矢嶋城主大井五郎満安(みつまさ)が西馬音内城で自刃したのを悼み、遺臣・侍女たちが盆に城下で踊ったのが始まりとする。

 また、西馬音内茂道は関ヶ原の戦いで西軍に与し敗れ、1601年(慶長6年)東軍「山形城主最上義光」勢の進攻により西馬音内城は自焼落城し滅びます。

  この茂道一族(茂道は出羽仙北稲庭・横手小野寺宗家第十二代当主輝道の長男:次子であるとも)を、土着した遺臣たちが偲んで、宝泉寺(西馬音内寺町)の境内で供養の盆踊り(亡者踊り)を行ったのが踊りの由来となったと伝わります。

 そしてその場所は、1781~1788年(天明年間)、宝泉寺境内から本町通りに移ります。

 1935年(昭和10年)、東京で開かれた日本青年館主催の「第9回全国郷土舞踊民謡大会」に東北代表として出演し、1981年(昭和56年)、国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 

出展ウキペディア 日本青年館主催の「第9回全国郷土舞踊民謡大会」に東北代表として出演時の写真

 

西馬音内踊りの唄と踊り

 曲目は「音頭」に始まり「甚句(じんく)」で終わります。

 甚句は「ガンケ踊」とも「亡者踊」ともいわれ、前述の西馬音内を治めた小野寺茂道一族など亡(な)き人々への供養の踊りであると伝わっています。

 

■踊りの構成

 踊りは「音頭」と「ガンケ」という7.7.7.5の4句からなる甚句の2種類で構成されていて、囃子は横笛、鼓、三味線、太鼓、摺り鉦(かね)を使い、演奏は寄せ太鼓に始まり寄せ太鼓で終わり、この奏者のほかに8.8.9.8.8.9の6句からなる地口や甚句の歌い手が加わります。

 

​ 

保名(やすな)風の鉢巻をしたかわいらしい子供

 

〇音頭

 豆絞りの手拭(てぬぐい)で保名(やすな)風の鉢巻をしたかわいらしい子供たちの踊りに始まって、彦三頭巾や鳥追い笠(かさ)姿の娘や若者の踊りに変わり、やがて練達の人たちが加わって雰囲気を高めていきます。

 子供が居なくなると、西馬音内盆踊りは本番へ。

 深編み笠の女性が中心の「音頭」となり、お囃子に乗せて、地口と呼ばれる歌も歌われます。

「音頭」は、優雅で静かな抑揚のある踊りが特徴で、振り付けは微妙に異なる1番と2番とがあり、交互に繰り返して踊られます。初心者向けであり、子供が最初に習う振りでもあります。

 

ガンケ

 西馬音内盆踊りの後半に始まるのが「ガンケ」で、お囃子の音色も一層哀愁を帯び、歌詞も奥深い「甚句」と呼ばれるものになります。

 「ガンケ」は、「音頭」に比べて踊りのテンポが速いのが特徴で、少し難易度の高い踊りとなります。

 

〇「ガンケ」という名前の由来

 「ガンケ」という名前の由来は、月夜を飛ぶ雁の姿を連想した「雁形(がんけい)」、仏教の布教活動を意味する「勧化(かんげ)」、現世の悲運を悼み来世の幸運を願う「願生化生(がんしょうけしょう)」など諸説があり、こちらも振り付けは2種類あり、特に2番の輪を描くように横に1回転する動きは「輪廻転生」を意味するとも言われ、「亡者踊り」と称される所以でもあります。

 

彦三頭巾

 

■服装の特徴

 唄の文句で「踊る姿にゃ 一目で惚れた 彦三頭巾で 顔知らぬ」と唄われるように、踊り子の一部は彦三頭巾(ひこさずきん)という黒覆面のようなものを被るほか、お高祖(おこそ)頭巾、鳥追い笠を深めに被り、ほとんど顔を見せることはありません。

 何故か?

 地元では、江戸時代に山賊が現れて娘をさらうので顔を隠して踊るようになったと伝わっているからだそうです。

 独特な着物は「端縫い衣装」と呼ばれ、江戸時代から先祖代々伝わるものがあるとか。

 色とりどりでカラフルな継ぎ接ぎが施された伝統的な衣装により、盆踊りが一層華やかになります。

 男性は浴衣に角帯を締めて瓢箪(ひょうたん)を下げ、彦三頭巾で踊ることから、これを亡者踊りとか願化踊りと呼ぶようになり、深編み笠は成人女性がかぶり、彦三頭巾は未成年女性や男性が着用します。

 

出典ウキペディア 出羽仙北宗家小野寺氏系図

 

■出羽仙北小野寺氏・西馬音氏の出自(しゅつじ)

 「踊りの由来」の項で述べた「出羽国の仙北稲庭・横手小野寺氏宗家」並びに「分家西馬音内氏」の流れを概略見てみると、西馬音内踊りの由来がはっきりしてくるかもしれません。

 

 しかしながら、これらの出自には資料が乏しく、諸説入り乱れているようです。

 ポイントとしては、

 1,将軍足利家に仕え、扶持衆となり出羽に入った小野寺三代目秀道の次男「道業(みちなり)」の【出羽小野寺氏】系

 2,同じく、小野寺三代目秀道の五男「経道(つねみち)」を初代とし、仙北地方(秋田県南部)を中心に、関ヶ原の戦いで敗れた十三代目となる小野寺義道まで連なる【仙北稲庭・横手小野寺氏】宗家系

 3,前述2の小野寺経道の次男「小野寺道直」を初代とする【西馬音内】分家系

とからなり、西馬音内盆踊りに係り追悼される人々は、2の【仙北稲庭・横手小野寺氏】宗家系、3の【西馬音内】分家系共に、出羽小野寺系秀道の五男「小野寺経道」という人物がキーポイントとなるようです。

 

仙北小野寺家の家紋

 

■出羽小野寺家の先祖のこと

 以下は【仙北稲庭・横手小野寺氏】宗家の先祖概略となります。

 

〇本貫地を下野国に賜る

 小野寺氏の初代は藤原姓首藤氏族である小野寺義寛(ぎかん、道成:みちふさとも)(1124~1203)と言われ、源為義に従軍し功績をあげ下野国下都賀郡小野寺郷(栃木県下都賀郡岩船町)を賜り小野寺氏を苗字とします。

 

〇源頼朝より出羽国雄勝郡の地頭職を賜る

 小野寺氏二代目の小野寺道綱(1154~1221)は1189年(文治5年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方を舞台に行われた一連の戦いとなった「奥州合戦」での戦功により、鎌倉幕府の御家人として活躍。

 源頼朝より出羽国雄勝郡の地頭職を賜るが、引き続き下野国都賀郡小野寺を本貫地とし、鎌倉幕府の御家人として鎌倉に住んでいました。

 

〇出羽小野寺初代当主小野寺道業(みちなり)のこと

 秀道は兄の二代目道綱に男子がいなかったため猶子となり、三代目当主となります。

 この秀道の次男である小野寺道業は「出羽小野寺」の初代当主となり、経道の姉を妻としていた関係から、義弟景泰(経道)を出羽大泉から呼び寄せ、小野寺六郎経道と名乗らせます。

 

出典ウキペディア 出羽仙北 稲庭・横手小野寺氏の領地

 

■「出羽仙北 稲庭・横手小野寺」氏の誕生

 律令時代後期から、雄勝・平鹿・山本の三郡を合せて山北(せんぼく)と呼ばれ、「吾妻鏡」などにもしばしば山北郡という記載がみえます。

 

 1577年(天正五年)頃、出羽仙北小野寺氏十二代小野寺輝道(~1598)は本拠を稲庭から横手に移したため、宗家(本家)筋の表現を出羽仙北 稲庭・横手小野寺としました。

 

■「出羽仙北 稲庭・横手小野寺」氏の系譜(異説もあり)

 諸説あるものの、『戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧』によると、「出羽仙北 稲庭・横手小野寺」一族は前述のごとく「義寛」道綱」「秀道」と続いた後、「経道(つねみち:1249~1293)」を初代とし、以降「忠道」「通有」信道」高道」「時道」「春光」「氏継・氏道」「泰道」「景道」「惟道・稙通」「輝道」、最後の当主「第十三代義道(1566~1645」と続くと記されています。

 

■小野寺六郎経道が「仙北稲庭・横手小野寺氏」の初代となったこと

 小野寺六郎経道は、『小野寺正系図』『和賀小野寺系図』によると実は出羽守三浦泰村の二男で三浦(沼田)景泰であったと伝わります。

 有力御家人であった三浦一族は、執権北条氏と鎌倉で武力衝突を起こした「宝治合戦」で北条氏と外戚安達氏らによって滅亡しますが、幕府の追捕をうけたため三浦景泰はいち早く鎌倉を脱出し出羽国大泉庄に落ち延びます。

 これは、【出羽小野寺初代当主小野寺道業(みちなり)のこと】で述べたように景泰の姉が「小野寺道業」の許へ嫁いでいたため、これを頼り、小野寺家に迎えられ小野寺六郎と改名します。

 のち、羽州雄勝郡稲庭(秋田県雄勝郡稲川町)に稲庭城を築いて居城とし、雄勝・平鹿・仙北三郡地方を治める「仙北稲庭・横手小野寺氏」初代となります。

 

〇西馬音内分家の誕生

 1277年(建治3年)、稲葉城を居城とした小野寺経道は次子である「小野寺道直」に西馬音内城を築かせて西の由利郡方面の抑えとし道直はその後西馬音内氏を名乗り初代となります。(* 後述の「■仙北西馬音内(旧小野寺)氏のこと」へ続きます)

 また、小野寺経道の三弟・小野寺道定は、出羽・湯沢城主になり、後、湯沢氏を称し一族で支配を固めます。

 

〇宗家は出羽有数の戦国大名へ

 1577年(天正五年)頃、「仙北稲庭・横手小野寺氏」十二代目小野寺輝道(~1598)は本拠を横手に移し、雄勝郡を中心に、北は山本郡(北浦)、西は由利郡、南は最上郡にまで勢力を拡大し、稲庭・川連・西馬音内・大森・湯沢などの支城に一族を配置し、小野寺氏最大の版図を築き上げ、出羽国有数の戦国大名となります。

 

〇宗家「出羽仙北 稲庭・横手小野寺氏」最期の藩主の顛末

 小野寺義道は仙北小野寺氏十三代目で小野寺輝道の次男で宗家最後の藩主となります。

 1581年に鮭延氏に離反されて最上郡の所領を失い、1582年には由利郡での由利十二頭との「大沢合戦」で敗れて由利郡への影響力を失うことになり、1590年には「仙北一揆」が原因で所領の1/3を失うことになってしまいます。

 1593年には讒言に騙されて由利郡で唯一小野寺氏の味方だった矢島満安を自害に追い込み、さらに1595年には最上義光の策略により忠臣の八柏道為を暗殺し、自らの手足をもぎ取るように自滅に追い込まれていきます。

 1595年に最上軍が湯沢城に攻め込んでも援軍を出せず、城主の小野寺孫七郎は奮戦の末に討死します。これにより、雄勝郡の半分が最上氏の手に落ち、大森城まで攻め込まれた所で和睦を結びます。

 1600年(慶長5年)出羽国で行なわれた上杉景勝 (西軍)と最上義光・伊達政宗(東軍)の戦いは「北の関ヶ原」といわれ、この慶長出羽合戦では小野寺軍は西軍上杉氏に誼(よしみ)して最上領に攻め込みますが東軍の勝利となります。

 戦後は徳川家康に敵対したとみなされ改易され、1601年、小野寺義道は石見国津和野へ流され、坂崎氏へと預けらます。

 この改易により、藩主は城や所領、家禄、屋敷の没収、士分の剥奪をされ、家臣は俸禄を失い浪人となります。

 

仙北西馬音内(旧小野寺)氏のこと

 以下は「出羽仙北稲庭・横手小野寺氏」から分家した西馬音内氏の話となります。

 

 西馬音内城は、秋田県雄勝郡羽後町西馬音内にある山城で、標高は185m。

 直下を雄物川の支流である西馬音内川が流れ、矢島街道と由利郡への間道である七曲越が合流する梺(ふもと)集落の東側に切り立つ崖上に位置する宗家小野寺氏の支城でした。

 

〇小野寺経道の次子「道直」が西馬音内に城を築き西馬音内初代となる。

 1277年(建治3年)、小野寺経道は次子である小野寺道直に西馬音内城を築かせて西の由利郡方面の抑えとしたことはすでに述べました。これにより、小野寺道直は西馬音内道直と名乗り初代となります。

 この西馬音内(旧小野寺)道直の系は以後2代不詳-3代道兼-4代道位-5代道鄰-6代不詳-7代昵道-西馬音内最後の当主8代茂道(出羽仙北稲庭・横手小野寺家第十二代当主輝道の長男)へと続きます。

 

〇 宗家と分家の確執と内紛

西馬音内八代当主茂道の娘婿矢島満安、西馬音内城で自刃(じじん)

 

 1591年(天正19年)矢島氏以外の仁賀保氏ら由利十二頭は最上氏と親交を深めるようになりますが、矢島氏は小野寺氏との関係を継続したことで由利十二頭から孤立するようになりました。

 1592年(文禄元年)西馬音内八代当主茂道(小野寺宗家の13代で横手城主・小野寺輝道の長男)の娘婿で、由利十二頭の一人、八森城主矢島満安が、同じ由利十二頭の山根城主・仁賀保兵庫頭挙誠連合軍五千余人に攻められ荒倉館に籠城するが敗れ、妻の実家である西馬音内城に逃れてきます

 由利十二頭の策に掛かった宗家仙北稲庭・横手の横手城主小野寺義道(1566~1645)から仙北統一の野望と疑われて、小野寺義道の弟である大森城主・小野寺康道らの軍勢を差し向けられ、西馬音内城を包囲されます。

 西馬音内城主茂道はこれを迎え討とうとしますが、舅、茂道の苦衷を察した満安は身の潔白を証明するため、西馬音内城にて自刃して果てます。また、西馬音への追っ手を迎え撃ち戦死したという説もあります。

これにより矢島氏は滅亡しますが、このことが、「踊りの由来」へと繋がります。

 

〇由利十二党とは

 『羽黒祭文』には「出羽奥州の乱世止むときなく、矢叫びの声の絶え間も嵐吹く、鳥海山の北表、由利の郡は一入の乱れなるによって鎌倉執権の仰せにて、由利十二党を下さる。」とあり、その12名とは前出の矢島城主の矢島五郎満安こと矢島の大江大膳の太夫、前出矢島満安をおいこんだ院内の仁賀保大和守、赤尾津孫九郎、子吉の子吉兵部少輔、芹田伊予守、打越の打越左近、石沢の石沢次郎、岩谷の小笠原右兵衛尉、潟保の潟保双記斎、鮎川の鮎川筑前守、下村の下村彦次郎、玉米の小笠原信濃でした。

 

〇内紛に乗じられ、山形城主の最上方に属す

 1595年(文禄4年)、この小野寺一族の内紛に乗じ、 山形城主・最上義光の重臣である楯岡城の楯岡満茂が小野寺領に侵攻し、そのため岩崎城・湯沢城は落城。

 西馬音内氏・柳田氏・松岡氏・深堀氏などが最上方に属し、雄勝郡の実質的支配は最上氏に移ることになりました。

 1598年になって、出羽・横手城主の小野寺義道が出羽・湯沢城の奪還を目指すと、西馬音内茂道は再び従い、西馬音内城への復帰を許されます。

 

■徳川家康に敵対した宗家小野寺、分家西馬音内氏の改易

 戦後は徳川家康に敵対したとみなされて所領を没収されます。

 

 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで、当初は東軍の「最上」側に属していた小野寺家は西軍の上杉景勝に味方したため、再び最上家と対立し、攻められることになります。

 しかし西軍の敗北によって上杉氏が退却すると小野寺氏は孤立し、1,800で出陣していた西馬音内茂道は、最上方が西馬音内城の接収に来た際に西馬音内城に火をかけて落城。

 嫡子・八之丞と共に庄内へと落ち延びていきます。この後の茂道の行方は詳らかではないそうですが、西馬音内の御嶽山西蔵寺に葬られると伝わります。

 茂道の子孫は秋田の新庄藩や久保田藩に仕えたと伝わります。

 一方、宗家小野寺義道は石見国津和野に流され、坂崎氏へと預けられ、以後子孫は津和野藩士となったという。

 

■羽後町(うごまち)

 羽後町は秋田県の南部に位置する町である。

 西馬音内の漢字をアイヌ語に訳すと、ニㇱ(nis)は雲、モㇺ(mom)は流れる、ナイ(nay)は川(沢)となり、「雲が流れる川(沢)」となるそうです。

 この雲が流れる川西馬音内川(馬音川)に沿った上流に西馬音内堀廻村があり、一帯を江戸時代直前まで支配していた小野寺氏の居城である西馬音内城がありました。

 

 町内を鉄道路線は通っておらず、鉄道を利用する際の最寄り駅は、JR東日本奥羽本線湯沢駅。現在は湯沢駅前から羽後交通のバス路線が走っているが、運転間隔は1 ~2時間に1本ほどにとどまっているため、町内への訪問はタクシーかレンタカーなどの利用がよさそうだ。

 

 周囲を山に囲まれ、古くは小野寺氏の城下町として発展し、県内屈指の豪雪地帯であり、山間部の積雪量は2メートルを超えることもしばしばである。

 主要産業は農業で、米ではあきたこまちの生産量が多い。黒毛和牛に代表される畜産も盛んである。

 

■蕎麦が美味しい

 蕎麦は 「冷がけそば」が有名。1818年(文政元)年に大阪で修業を積んだ職人が、西馬音内に店を開いたのが始まりとされ、つなぎにフノリを使い、こしが強いのが特徴。

 

■茅葺き屋根の民家

 羽後町は茅葺き屋根の古民家が秋田県内で最も多く残されている町として知られている。その数は100棟以上になり、重要文化財の指定を受けているものもあると聞く。

 

 

 町の大通りに焚かれた篝火に映え、楕円形に広がった踊り子の手や足さばきは美しく、野性的な囃子と美しい踊りの対照は「西馬音内盆踊り」の特徴となっています。
 

遺臣や村人たちに慕われた「仙北西馬音内」のお殿様・・・
 

唄は続きます。

 

<< ♪♪

ヤートーセ ヨーイワナーセッチャ

 惚れた惚れたよ あの踊り子は 顔は知らねど ササ忘られぬ

(ソラ キタカサッサ ノリツケハダコデシャッキトセ)

 

ヤートーセ ヨーイワナーセッチャ

お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し

(ソラ キタカサッサ ノリツケハダコデシャッキトセ)

♪ >>

 

 この後、秋田には常陸国の佐竹義宣が減転封となって、多くの美人を引き連れ移封されます。宜しければ、下記URLで「日本人のDNA 民謡シリーズ 秋田音頭 秋田県民謡」もお読みいただければ幸いです。

https://ameblo.jp/hikarugenjii/entry-12674862679.html