ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 

 ここ秋田県にも「秋田馬方節」「秋田追分」「秋田おばこ」「秋田おはら節」「秋田音頭」「秋田草刈り唄」「秋田草取り唄」「秋田駒引き唄」「秋田酒屋唄」「秋田酒屋仕込み唄」「秋田竹刀(しない)打ち唄」「秋田甚句」「秋田大黒舞い」「秋田タント節」「秋田長持唄」「秋田荷方節」「秋田馬喰(ばくろう)節」「秋田節」「秋田船方節」「秋田馬子唄」「秋田万歳」「秋田港の唄」「秋田もと摺(す)り唄」「姉こもさ」「飴売り唄」「いものこ(祝奉節)」「臼ひき唄」「岡本新内」「おこさ節」「生保内(おぼない)節」「お山コさんりん」「鹿角(かづの)お山こ」「喜代節」「久保田節」「新タント節」「正調生保内(おぼない)節」「仙北荷方節」「長者の山」「ドンパン節」「西馬音内(にしもない)の盆踊り(ガンケ)」「能代(のしろ)舟唄」「能代船方節」「ひでこ節」「本荘追分」「三吉節」などたくさんの民謡が採譜されている。

 

<< ♪

ヤートセー コラ 秋田音頭です ハイ キタカサッサー    ヨイサッサ ヨイナー

コラ 秋田の女ご 何どしてきれ(綺麗)だと 聞くだけ野暮だんす(アーソレソレ)

小野小町の 生まれ在所を お前はん 知らねのげ

♪ >>

と唄われる小野小町の在所、雄勝町は、エジプトのクレオパトラ、玄宗皇帝の妃楊貴妃と共に「世界三大美人」の一人に数えられている小野小町が生まれ育ったところであると伝えられている。

 

 

 日本には美人が多いとされる地域がいくつかあるが、京都生まれの「京美人」、福岡生まれの「博多美人」、新潟生まれの「越後美人」、そしてここ秋田生まれの「秋田美人」が有名だ。
 

■唄の成り立ち

 平安時代まで出羽国の出羽は「いでは」とよばれ、1869年1月19日、現在の山形県にほぼ相当する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に2分割されます。

 

 唄の成り立ちは、1633年(寛文3年)、出羽国久保田藩(秋田藩)(外様)20万5800石第2代藩主佐竹義隆に、城下に流行している手踊りの「御国音頭(おくにおんど)」を上覧する折、柔道の型を取り入れて踊りを作り、藩士の娘たちに教え込んでお見せしたことに始まります。

 賑やかな三味線、笛、太鼓と鉦(しょう)を伴奏に、唄は音程のないリズミカルな語り口調とし、それに合わせ踊らせたが、藩主の御意に叶ったという。

 その後、秋田県羽後(うご)町の西馬音内(にしもない)地区の盆踊りに取り入れられ『トル音頭』、仙北(せんぼく)市角館(かくのだて)町の祭礼に取り入れられて『仙北音頭』となった。

この「御国音頭」は明治時代の始め頃に「秋田音頭」と改められ、日本最古の和製ラップとも称されている。
 

出典ウキペディア 平安初期の後宮の服装
 

■秋田美人の由来諸説

 秋田に美人が多いという由来には2説あるといわれている。
 

 その1:佐竹義宣が常陸から秋田へ多くの美人を引き連れてきたという説

 戦国時代、常陸国(ひたちのくに:茨城県)は清和源氏義光流で河内源氏の流れをくむ佐竹氏という名家が治めていた。

 この佐竹氏は1595年(文禄4年)6月19日、豊臣秀吉から「常陸国の佐竹義宣は54万5,765石を安堵する」旨の朱印状を受領するが、1598年8月18日に秀吉が伏見城で死去すると東軍・西軍に分かれ関ケ原の戦いとなります。

 1602年(慶長7年)5月8日になると、常陸国の佐竹義宣は天下人となった徳川家康から出羽国久保田(秋田)に減転封する命令を受けます。

 その理由とは、

 ①     常陸の大名であった佐竹義宣は1600年の関ヶ原の戦いにおいて家中での意見をまとめられず、在国のまま傍観するというどっち付かずの態度を取ったためとするもの。

 佐竹義宣は西軍の石田三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を白河口で挟撃するという密約を結んでいたといわれます。

 しかし、隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた父の佐竹義重や弟の蘆名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し、義宣の西軍加担に強硬に反対します。

父義重の発言を当主義宣も無視できず、自身の三成との親交と板ばさみとなり曖昧な態度に終始したのが原因となります。

 ②     また、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説、などが挙げられます。

 

 減転封を決めた天下人家康に公然と反旗を翻すわけにもいかない佐竹義宣は、腹いせとして常陸国から出羽国に引っ越しをするときに、旧領内、常陸中の美人をごっそりと秋田に連れていきました。

 

 その2:キャッチコピー説

 急激に人口の増えた秋田の需要を見込んだ女衒(ぜげん)が新潟から多くの遊女や女郎を連れ、または秋田出身の娘が少しでも高く売れるよう「秋田美人」というキャッチコピーを作ったという説もあるようです。

 

 いずれにしても、秋田には常陸国や越後からの美人の女性が多く住まうこととなり、これが、秋田には美人が多いと言われる理由の一つのようです。

小町堂
 

■小野小町(生没年不詳)に関する話

 秋田音頭に唄われる小野小町(以下小町と記す)は美男として名高い在原業平の求愛を鉄火のごとく撥ね付けたとか、晩年には落ちぶれて各地をさまよい、死去する際に、「我死なば 焼くな 埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やせよ」(平安時代位までは貴族も風葬が一般的)(私が死んだら、火葬にも土葬にもせず、野にさらしておきなさい。痩せ犬が空腹を満たせるように)という歌を遺したと言われ、
 また、六歌仙の一人在原業平が東国へ下った際、野中から「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」(風が吹くたびに、ああ、目が痛い)と和歌の上の句を詠む声が聞こえ、よく見るとしゃれこうべの眼窩からススキが伸びており、美女の末路を哀れんだ業平は、歌に続けて「小野とはいはじ薄(ススキ)生ひけり」と下の句をつけたと伝わり、波乱万丈の一生だったように見受けられます。
 

■小町の誕生

 小町の生誕地や晩年については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれていますが、全国に点在しており数多くの異説があるようだ。

 『古今和歌集目録』では「出羽国郡司女(むすめ)。母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『小野氏系図』では篁の孫で、出羽郡司良真の女子または出羽守小野滝雄の子とする説などがある。
 

平安時代の小野氏の系図の一部(異説もあり)
 

■小町誕生説 その1(小野篁を父とする説)

 『倭名抄(わみょうしょう)』によると小野郷は以前「七里ヶ沢」とよばれていました。

 この一帯に、小野篁(おののたかむら:802年~853年: 852年の官位は従三位)が救民撫育のためにやって来て、この地を「小野六郷」と称して治め、荘園に仕える「愛子(めずらこ・珍敷御前)」という女性と結ばれます。

 間もなく姫が生まれ「比古姫」と名付けられ、「比古姫」が六歳になったある春の日、篁は妻愛子を残し、姫を連れ都へ上がっていきます。この「比古姫」が後の小町と言われているとする説。

 

■小町誕生説 その2(篁の孫とする説)

 『尊卑分脈』によると、前記、小野篁の息子である小野良真(おの の よしざね:生没年不詳の公卿:「公」は大臣、「卿」は参事または三位以上の京都御所に仕える上・中級廷臣)が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町であり、13歳まで出羽の小野で過ごし、その後に都に上り、約20年間宮中の女官として務め、故郷出羽の国福富壮桐木田(現湯沢市雄勝町小野字桐木田)へ戻ったとする説。

 良真には二人の女子がいたとも言われています。

 小町は92歳で没するまでこの地に留まり、小町の霊を祀るために建てられたのが小町堂で、その周辺には、小町ゆかりの寺院や岩屋が存在していると伝わっています。
 

内裏の図
 

■小町が後宮にいたとされる理由

 平安時代とは794年に桓武天皇が平安京に都を移してから、1192年鎌倉幕府の成立までの398年間のことを指します。

 

■平安時代の女性の適齢期

 裳着(もぎ)とは、平安時代から安土桃山時代にかけて、初潮を迎えた後の10代前半の女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼のことで、裳着を済ませることで結婚などが許可されました。

 

■「更衣」の私室を「町」といった

 天皇の妻は、皇后(中宮・妃)・女御・更衣という順に位があり、女御までは殿舎が与えられましたが、更衣は常寧殿(じょうねいでん)という建物の中を屏風や几帳などで簡単に仕切って、その区画を与えられていました。

 この長方形に仕切られた部屋のことを町(まち)と呼んでいました。

 

■○○町と呼ばれた後宮の存在

〇その1

 紀名虎(きのなとら)には1男5女がいて、長女種子を第54代仁明天皇(810年~850年)の更衣として(第7皇子常康親王,眞子内親王をもうける)、また次女静子を皇太子・道康親王(第55代天皇文徳天皇)の更衣として入内(じゅだい)させ、静子は844年(承和12年)には第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)を含め二男三女を産み、「三条町(さんじょうのまち)」と呼ばれていました。

 他、仁明天皇の後宮には三国氏出身で更衣の「三国町」(皇子貞登の母)が見えます。

このように、更衣に「町」の名が冠された実例も見え、小町が天皇の後宮に仕えていた可能性が高いと考えられています。
 

〇その2

 『続日本後記』の842年(承和9年)正月の条には、第54代仁明天皇(にんみょう)の後宮に、宮人の小野吉子(きちこ)と宮人の藤原朝臣(賀)登子いう人が同時に正六位上に任じられた記録があります。(j上記写真の青〇の間の記事)

 この小野吉子の方は、小町自身であったと考える説と、また、姉妹ほぼ同時に後宮に仕えたことにより、吉子の妹だと言う意味で「小町」と呼ばれたとも考えられます。

 

 小野篁は841年には正五位下となり、翌842年には皇太子道康親王(後の第55代文徳天皇)の東宮学士となった時期でもあります。

 

 これらの伝によれば、小野小町の「小町」は本名ではなく、小野朝臣氏の娘で更衣以下の位の女性が住む「町」に居する女性で、同時期に小野町が二人いたため、若い方を小町と言ったのではないかと推測されます。

 

■平安時代以後に生じた後宮の呼称とは

 前節で推測された、小町が過ごしたと伝わる後宮についてみてみましょう。

〇太后(おおきさき)

 帝の子、皇太子を生んだ場合「太后」と書き、帝の第一の妃を指すときは「大后」と書くことが多い。

〇中宮(ちゅうぐう)(皇后)

 帝の第一の妃。中宮は一人しかなれないため、後に複数の皇后が立てられた際は、2番目以後の者を指し、概ね内親王や親王・摂関・大臣の子女から中宮が選ばれる。

〇女御(にょうご)(嬪:ひん、ひめ)

 帝の妃の呼称の一つ。後に中宮(皇后)に次ぐ地位とされ、女御をへて中宮になるのを慣例とした。四位・五位の者をあて、定員は4人。

〇更衣(こうい)(便殿:びんでん詰めの女官)

 便殿は天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行幸啓先で休息するために設けられた部屋や休息のために建てられた御殿のこと。

 もとは帝の衣替えの御用を勤める役であったが、帝の妃の呼称となった。

 納言およびそれ以下の家柄の出身の女性で、天皇の寝室にも奉仕して、女御に次ぐ地位の配偶者に改められ、定員は12名とされた。

〇御息所(みやすんどころ)(「御息所」詰めの女官)

 天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められ、天皇の寵愛を受けた女官や、皇太子・親王の配偶者のことも指すようになった。

〇御匣殿(みくしげどの)(天皇の衣服などの裁縫をする所に詰める女官)

 天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。その最上位のものは「別当」と称し、女御に昇る予定の女性がまず御匣殿別当に就くこともあった。

〇尚侍(ないしのかみ)

 内侍司(ないしのつかさ)の長官。常に帝の近くに侍り、奏請と伝宣(内侍宣)、宮中の礼式等を司った。定員は2名。多く摂関家の娘が選任された。

 帝の寵愛を受けることがあり、女御、更衣に準じる存在となる。

〇典侍(ないしのすけ)

 大納言・中納言を中心に公卿の娘が多く選ばれた。定員は4名。

 

■宮人の組織

 天皇の后、それに準じる名称については前述の通りであるが、体系的な宮人(くにん/くうにん/きゅうじん・後の女官)の組織としては後宮十二司の職務(官司)があった。

内侍司(ないしのつかさ)とは天皇に近侍し、奏請と伝宣、宮中の礼式等を官司。

蔵司(ぞうし/くらのつかさ)とは神璽、関契(三関の割符)、天皇・皇后の衣服を官司。

書司とは書籍および文房具のことを官司。

薬司とは天皇に関する医薬の事を官司。

兵司とは後宮で兵器の管理を官司。

闡司(みかどのつかさ:いし)宮閤の管鑰(中門と内門の鍵の管理)及び、出納(諸門の鍵の管理業務)を官司。

殿司(とのもづかさ・とのもりづかさ)は、後宮の清掃、輿などの乗り物、灯油・火燭・ 炭薪などの内部の照明などを官司。

掃司(そうし、かもりづかさ)とは施設の管理、清掃などを官司。

水司 粥(かゆ)のことを官司。

膳司(かしわでのつかさ)とは食膳・食事のことを官司。

酒司(みきのつかさ、しゅし)とは造酒司で醸造のことを官司。

縫司(ぬいのつかさ)とは衣服の裁縫、組紐を編むことを司り、あわせて女官の出仕・朝参のことを官司。

など12官司より構成されていました。

 

 第54代仁明天皇はこれら宮人からは5人后妃として迎えており、宮人の小野吉子(きちこ)がいたことはすでに記述済みである。第55代文徳天皇は宮人から9名后妃として迎えています。

 

 小町は超美人で、和歌に通じ、歌仙に選ばれるなど有名人にもかかわらず、出自や経歴などが不明な点は如何なものであろうか?研究が望まれる。

 

■秋田県

 「秋田」の名前の由来は、飛鳥時代の658年(斉明天皇4年)に阿倍比羅夫の日本海遠征において、この地を訪れ地名を「齶田(あぎた)」と報告したことから始まります。

 その後、734年(天平5年)に庄内地方にあったとされる出羽柵が天平宝字年間頃には、「秋田城」と呼ばれるようになり、「秋田」の表記が定着します。

 中世後期には日本最古の海洋法規集「廻船式目(廻船大法)」には三津七湊(さんしんしちそう)の一つとして「秋田湊」と呼ばれ重要な湊の一つに数えられていました。

 

■三津(さんしん)

安濃津(三重県津市)

博多津(福岡県福岡市)

堺津(大阪府堺市)

 

■七湊(しちそう)

三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口

本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口

輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口

岩瀬湊 - 越中国新川郡(富山県富山市)、神通川河口

今町湊(直江津) - 越後国頸城郡(新潟県上越市)、関川河口

土崎湊(つちざきみなと)(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口

十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口

 

■深草少将の「百夜通い」伝説

 平安時代は女性と男性が直接顔を合わせる習慣がありませんでした。

 男性は木や花に恋文を括り付け、お付きの女房を介して届けてもらいます。

 女性は、男性が選ぶ木や花のセンス、和紙の色や質のセンス、字のうまさや優美さ、和歌の内容で求愛する男性を見極めます。

 

 小町が出羽の国福富壮桐木田へ戻った折、深草少将は小町に会いたさから郡代職を願い出て、都から小野の里へとやってきます。

 深草少将は「御返事橋(おっぺじばし)」のたもとに住む「梨の木の姥」に小町への恋文を託し、その返事を待ちます。

 小町は「私を心から慕ってくださるなら、高土手に毎日一株の芍薬(しゃくやく)を植えて百株にしていただけませんか。約束通り百株になりましたら、あなたの御心に添いましょう」と伝えます。

 少将はこの返事を聞いて野山から芍薬を掘り、植え続けます。

 

 いよいよ百日目の夜。この日は大雨が降り、柴で編んだ橋はひどく濡れていました。 「今日でいよいよ百本だ。」小町と会える喜びで、従者が止めるのもきかず、通い慣れた道を百本目の芍薬をもって出かけました。

 しかし、少将は濡れた雨で橋から落ち、橋ごと流され亡くなってしまいます。(大雪とする説もあり)

 小町は深い悲しみに暮れ、少将の亡骸を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、供養の地蔵菩薩を作り向野寺(現:秋田県湯沢市小野字小野)に安置し、芍薬には99首の歌を捧げました。少将の仮の宿だった長鮮寺には板碑を建て回向し、その後岩屋堂に住んだ小町は、世を避け、自像を刻んで、92才で亡くなったと伝わります。
 

月心寺の小野小町百歳像
 

 天皇の皇后や妃(後宮)に仕えるようになったと伝わる小町は、その容姿の美しさと優れた才能から比類なしと称され、やがて、「小野の小町が歌は、古の衣通姫の流なり。然れども、艶にして気力無し。病める婦(をんな)の花粉を着けたるがごとし。」と評される六歌仙(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小町、大友黒主)や三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人となります。
 

出典ウィキペディア 六歌仙の図、喜多川歌麿画。
 

 花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

 『古今和歌集巻第二春歌下』

(花の色や私の美しさも、もう衰えてしまった。若いころはあんなに美しかったけれど、私の身はすっかり衰えてしまった。美しく咲き誇っていた花が、長雨に打たれ、色あせていくように)

 

唄は続きます。

<<♪♪

ハイ キタカサッサー

ヨイサッサ ヨイナー

コラ 秋田名物 八森ハタハタ

男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)

能代春慶 桧山納豆

大館曲げわっぱ

♪ >>