ここ広島県でも「敦盛さん」「音戸の舟唄」「石切唄」「亥の子祭」「逢瀬」「紙漉(す)き唄」「供養田」「西条酒造り唄」「酒造り唄」「三吉ばやし」「さんこ節」「祝入り」「新庄の囃(はや)し田」「瀬戸の大漁節」「瀬戸の打瀬船」「瀬戸の舟唄」」「ちょんこ舟唄」「鞆(とも)の浦大漁節」「袴(はかま)踊り」「浜子唄」「囃し田」「平句」「広島節」「広島木遣音頭」「広島木遣り唄」「広島木挽き唄」「広島ヤッサ」「福山どんと」「盆踊り唄」「御手洗(みたらい)節」「御手洗櫓(ろ)音頭」「三原やっさ節」「三原やっさ踊り」「漕ぎ伝馬唄」「宮島音頭」「宮島杓子(しゃくし)踊り」「麦たたき唄」「室尾甚句」「武士節」「櫓(ろ)唄」「木挽(こび)き歌」「木出し」「木遣り」「筏(いかだ)流し」「柴刈り歌」「山行き歌」「牛追いかけ」「馬追いかけ」「代掻(しろか)き唄」「苗取り唄」「田植え唄」「草取り唄」「ごち網歌」「うたせ網歌」「ぼら網歌」「小網歌」「鰯(いわし)網歌」など、たくさんの民謡が採譜されている。

 

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ヤーレーノ 船頭可愛いや 音戸の瀬戸でヨー (アードッコイドッコイ)

一尺五寸の ヤーレノ 艪がしわるヨー   (アードッコイドッコイ)

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と唄われる「音戸の舟唄」は、大阪府民謡の「淀川三十石船舟唄」、山形県民謡の「最上川舟唄」とともに日本三大舟唄の一つに数えられている。

 

 

 

■高山節が主流

 昭和30年代、音戸町出身の高山訓昌(のりまさ)によって節回しが纏(まと)められ,作詞の追加や娯楽性に工夫が加えられ、今日の「音戸の舟唄」となった。

 高山は1964年音戸の舟唄保存会を設立し、初代会長として後進の指導に努めた。

 現在はこの「高山節」が一般的となっている。

 

■音戸の瀬戸

 唄われている音戸の瀬戸とは、広島県呉市にある本州側の警固屋(けごや)と西向いにある倉橋島の音戸町を南北に横たわる海峡のことだ。

 昔は呉湾と安芸灘、斎灘(いつきなだ)を結ぶ近道のため、多くの舟がここを利用した。

 しかし、可航幅が60メートル(全長650メートル)、最大4ノット(1時間に7.4㎞)と潮流が速く、潮の干満につれて急流となり、海中に突き出た岩にあたって渦巻き、櫓をこいで乗り切るには大変難しく、船頭泣かせの難所であった。

 今では、東側の警固屋八丁目広電バス~西側の音戸町引地二丁目の120メートルを就航しており、日本一短い海上定期航路である。

 

■平清盛、「日招き」伝説

 1164年、平清盛は音戸の瀬戸の開削工事に着手。竣工まで10か月の月日を要した。翌1165年7月16日、引き潮を見計らって最後の作業が行われることとなった。しかし、すでに夕日は西に傾き、足元は暗くなり始めていた。

 清盛は急ぎ「日迎山」の岩頭に立ち、右手に金扇をかざして沈まんとする日輪を差し招き、「返せ~、戻せ~」と叫んだ。すると不思議なことに日輪は舞い戻り、「それ、陽はまだあるぞ」と必死の努力で開削工事は成就した。時に清盛48歳の時であると伝えられている。

 

■石高に見る安芸広島藩

 広島は毛利輝元の城下であったが、関ケ原の処分により福島正則が入る。しかし、広島城無断改築をとがめられ改易となる。その後は、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟(ながあきら)が、紀州藩より、安芸1国・備後8郡の42万6千石で入封し広島藩の初代藩主となり、以来浅野家は12代50年に亘り広島に在封した。

 

 1863年の石高順位は下記の通りで、広島藩は全国8位の大藩であった。

第1位 加賀金沢藩  120万石    外様     藩主:前田斉泰

第2位 薩摩鹿児島藩 72万8千石  外様     藩主:島津忠義

第3位 陸奥仙台藩  62万石    外様      藩主:伊達慶邦

第4位 尾張名古屋藩 61万95百石 御三家  藩主:徳川義宣

第5位 紀伊和歌山藩 55万5千石  御三家  藩主:徳川茂承

第6位 肥後熊本藩  54万石    外様     藩主:細川韶邦

第7位 筑前福岡藩  47万3千石  外様     藩主:黒田長薄

第8位 安芸広島藩  42万6千石  外様     藩主:浅野長訓

 

唄もまた、豪快である!

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ヤーレノ ここは音戸の瀬戸 清盛塚のヨー 岩に渦潮 ドンと ヤレノ

ぶち当たるヨー

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 民謡は人々の共同生活の営みのなかから生まれ、昔より受け継がれてきた代表的な生活文化の一つである。