予言を的中させたのは「アマビエ」それとも「ヨゲンノトリ」?

東京都大田区下丸子にある六所神社(ろくしょじんじゃ)に参拝した折、下記のような紙が置いてあり、両面に「アマビエ」「ヨゲンノトリ」の写真と由緒書きがあり、「新型コロナウイルス感染症の一刻も早い終息を願うとともに、ご参拝いただきました皆様方のご平安をご祈念申し上げます。くれぐれもご自愛ください。」と朱書きされていました。

 



 参拝を終えてから、「アマビエ」とは何ものと調べを進めていくうちに、SNSなどで人気を博しているようで、もう一方の「ヨゲンノトリ」が気になり出し、さて、どちらが予言を的中させているかと、下表を作成することにしました。

 

古(いにしえ)より、人々に地震・雷・火事よりも恐れられていたものに疫病(伝染病)がありました。

720年(養老4年)に完成した『日本書紀』には、疾疫、疫気(えやみ、えのやまい)の言葉が見られ、江戸時代には、一生に一度しかかからない天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、水疱瘡は人生の三疫病とされ、この三つを無事に終えることが、最大の願いだったようです。

特に天然痘、麻疹は死亡率が高く、一度流行すると多くの人々の命を奪いました。

 

1819年から1862年の主要地震、津波、疫病一覧と予言の整合性

疫病、厄難の予言を行った妖怪は多くあるようですが、特に、(1)神社姫、(2)くだべ(件=くだん)、(3)アマビコ、(4)ヨゲンノトリに関して予言と年表を作成して、検証してみました。

黄色の塗りつぶしは、結果としての私個人の見解となります。

尚、できる限り、資料を漁(あさ)りましたが、見落としなどがあるかと思われますので、ご指摘をいただけたら幸いです。

 

西暦年

和 暦

出現、預言内容、主な出来事

 

 

 

1822

 

文政5

●323日有珠山犠牲者103人。火砕流による

日本で初めて、西日本を中心にコレラが流行。長崎に入ったコレラがたちまち大阪まで広がり、大阪での死者は日に3~4百人だったと言われる。

 

 

 

1827

文政10

くだべ(件とも)(*2)現れ、これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出ると予言台風、地震、火災発生に伴い生じた疫病のことか?1828年から1830年の3年で、地震、台風、火災で23,761人も死亡。しかし、特に疫病の記事は見当たらず。
4年後(1831年)には乳幼児の5人に1人の割合で疱瘡(ほうそう)にて死亡。これは疫病なので当たっていると思われる。

1828

文政11

条地震(越後三条地震) - M6.9、死者1,681人。

●917日(旧暦89日)シーボルト台風。九州地方や中国地方にかけて大被害をもたらした台風。佐賀藩だけで死者が約1万人、九州北部全体で死者約19千人に達する被害が出た.。

1829

文政12

●424日(旧暦321日)神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。焼失家屋37万。死者2,800人。

 

 

 

1831

 

●1831年からの10年間(1841年まで)平均で、5歳以下の乳幼児の5人に1人は痘瘡で死んでいた。(美濃国のある村の宗門改帳を基にした調査)

1833

天保4

●527日(旧暦49日) 美濃西部で地震 - M6 死者11人。余震は8月まで、震源は根尾谷断層付近。

●127日(旧暦1026日) 庄内沖地震(出羽・越後・佐渡地震、天保4年羽前沖地震) - M7 、死者40 - 130人。それに伴い、能登半島・東北・北陸の日本海沿岸に津波。

1833

天保4

●天保の大飢饉1835年から1837にかけ最大規模。1839年まで続いた。

1834

天保5

●316日(旧暦27日)神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。以後213日まで火事が連続して発生した。死者4,000人。

1

 

 

1836

天保7

●丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物『件』が現れる(2)

1837

天保8

●大塩平八郎の乱

1838

天保9

●3月10日江戸城西の丸炎上、4月17日江戸で大火

1839

天保10

●12月1日江戸で大火

1841

天保12

●523日、口永良部島犠牲者多数。噴火による、村落焼亡

●10月7日江戸で大火

1843

天保14

●天保十勝沖地震 - M7.5 - 8.0、死者46人。厚岸に津波。

1844

天保15

アマビコ(3)が越後国に現れて「年中に国の人口の7割が死滅するが、自らの姿を絵札にして持っておけば これを免れる」と言い残して去ったという。本年には人口の7割も死ぬ大事件の記録はなかった。

●5月10日江戸城炎上

1845

弘化2

●32日(旧暦124日)青山から出火し、北西風により延焼。焼失した町126・武家屋敷400・寺社187。消火活動の際、町火消の新門辰五郎率いる「を組」と久留米藩有馬家の有馬頼永率いる大名火消とが乱闘になり、死傷者が出た。死者800–900

3月27日江戸で大火。入牢中の高野長英、逃亡

1846

弘化3

●アマビエ(3)肥後国に出現。当年より6か年、諸国で豊作が続くが疫病も流行すると予言(1851年まで)6年間において地震の死者の記録はあるが、疫病の記録はない。

1847

弘化4

●58日(旧暦324日)善光寺地震(弘化大地震) - M7.4。山崩れにより犀川の河道閉塞と閉塞部の決壊により洪水、死者約1 - 13,000人。

1849

嘉永2

●9月21日三宅董庵、広島で種痘(天然痘の予防接種)を行う

●10月2日長州藩、種痘を行う

●11月佐賀藩医・伊藤玄朴、江戸で種痘を行う

1851

嘉永4

●4月14日水戸藩、種痘を行う

 

 

 

1853

嘉永6

●6月3日アメリカ・東インド艦隊指令ペリー、軍艦4隻を率いて浦賀に来航。国書受取を要求

●小田原地震(嘉永小田原地震) - M6.7±0.1、死者約20 - 100人。

1854

嘉永7

●79日(旧暦615日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M7 、死者約1,800人。

●1223日(旧暦114日) 安政東海地震(東海道沖の巨大地震) - M8.4 、死者2,000 - 3,000人。

●1224日(旧暦115日) 安政南海地震(南海道沖の巨大地震) - M8.4 、死者1,000 - 3,000人。

安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。

両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)。

●1226日(旧暦117日) 豊予海峡地震 - M7.3 - 7.5。安政南海地震の約40時間後に発生。スラブ内地震とされている。

1855

安政2

●318日(旧暦21日) 飛騨地震 - M6 又はM6.9、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。

●913日(旧暦83日) 陸前で地震 - M7

●117日(旧暦928日) 遠州灘で地震 - M7.0 - 7.5、安政東海地震の余震。津波有り。

●1111日(旧暦102日) 安政江戸地震(安政の大地震 - M7.0 - 7.1、死者4,700 - 26,00014,000戸全壊。

本所・深川・築地で全損。また、江戸城も破損し、将軍家定は城内の庭園に避難したと伝わります。

この日に起きた安政江戸地震にともない江戸市内の各所から出火して大火となった。

1856

安政3

823日(旧暦723日) 安政八戸沖地震 - M7.5 - 8.0 、三陸および北海道に津波。死者29人。

「安政の台風」825日(旧暦923日)から翌26日(24日)にかけ、シーボルト台風を上回る巨大台風が幕末の江戸を襲う。死者1,000人とも10万人ともいわれる。『安政風聞集』の記録によると前年の大地震の10倍もの被害があったとか。

●925日北海道駒ヶ岳犠牲者1927人。噴石、火砕流による

1857

安政4

ヨゲンノトリ(4)の予言1858年多数死ぬとの予言1858年、まさにコレラで約30万人死亡。的中している。

●1012日(旧暦825日) 伊予・安芸で地震 - M7 、今治で城内破損、死者5人。

1858

安政5

長崎に上陸した米国軍艦の乗組員が細菌を持ち込んだとみられるコレラは大坂・京都を経て江戸に達し、江戸のみで死者3万から10万余人を数えたという。また、江戸市中の寺院の過去帳によると、7~9月に23万~26万人以上が亡くなっている。前後の期間も合わせると死者は30万人を超えたと言われている

薩摩大名の島津斉彬もコレラで命を落としている。

●49日(旧暦226日) 飛越地震 - M7.0  - 7.6。地震による直接の死者数百人、常願寺川がせき止められ後日決壊、それによる死者140人。

●78日(旧暦528日) 東北地方太平洋側で地震 - M7.0 - 7.5

1859

安政6

●9月14日梅田雲浜、断罪。以降、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰など刑死

1860

万延元

●3月3日桜田門外の変。大老・井伊直弼、桜田門外で暗殺される

1861

文久元

●1021日(旧暦918日) 宮城県沖地震 - M6.4又はM7.2程度[、津波、家屋倒壊、死者あり。

1862

文久2

コレラが夏にも流行し、江戸だけで7万3000人の死者が出、全国で56万人もの患者を出したといわれている。

はしかにより、江戸だけで約24万人が死亡

 

 

■アマビエ・アマビコ(*3)

1846年(弘化3年)5月上旬、肥後国(現・熊本県)に毎夜、海中に光る物体が出没していたため、土地の役人が赴いたところ、それが姿を現した。そのものは役人に対して、「私は海中に住むアマビエと申すものなり」と名乗り、「当年より6ヶ年は諸国で豊作が続くが、しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。

 

 

 京都大学所有、京都大学附属図書館収蔵

 

■ヨゲンノトリ(4)

1858(安政5)年に甲斐国市川村(現在の山梨市)の名主伊左衛門が書き残した『暴瀉病流行日記』(ぼうしゃびょう りゅうこうにっき)によれば、黒と白の二つの頭を持つ鳥が、加賀国(現在の石川県)に現れて言うことには「来年の89月には、世の中の人が9割方死ぬ難が起こるが、私たちの姿を朝夕に拝み、信心するものは難から逃れることができるであろう」とコレラの大流行を予言したとされる。

 今年の8月、9月に至り、多くの人が死んだ。まさしく神の力、不思議なお告げである。

 これは熊野七社大権現の優れた武徳を表す鳥であるといわれている。

 暴瀉病流行日記 頼生文庫・山梨

 

 

現在、世界で新型コロナウイルスが蔓延し、未だ予防薬がない状況は古代や江戸時代と同じ神仏にすがる不安な状態と思われます。

疫病を予言し護符としての役割を果たす妖怪が現れることを期待したいのは私だけでしょうか?

もし、私たちを守ってくれる妖怪が「ヨゲンノトリ」又は「アマビエ」だとしたら、私は、表に示した予言の的中率からして「ヨゲンノトリ」の写しを採り、部屋に飾っておきたいと考えております。

 

皆さんはどのようにお考えでしょうか?