五稜郭

地上に舞い降りた星。それが五稜郭に最もふさわしい形容ではないだろうか。17世紀初頭、ヨーロッパでは正多角形な城壁を持った都市が理想とされていた。7年の歳月を経て完成されたこの種の城壁は、世界でも数か所と聞く。幕府最初の洋式城郭は皮肉にも幕府最後の城となった。

 

五稜郭公園・五稜郭タワーから

 

明治元年、榎本武揚率いる旧幕府軍が立て籠もり,箱館戦争の舞台になった史跡である。

もっとも激戦と言われる二股峠で最後まで官軍を寄せ付けず、真価を発揮した土方歳三は若い女性に人気が高い。一本木(現若松町)の関門からわずかな兵を引き連れ、同志を救出しようとして打って出た歳三であったが、馬上、腹部に銃弾を受け壮烈な死を遂げる。享年35歳であった。

 

新しい時代を夢見、男たちが命を懸けた五稜郭。

耳を澄ませばその息遣いが今も聞こえてくるようだ。

 

 

湯の川温泉

 松倉川が津軽海峡に注ぐ辺りに、3百年有余年の歴史を誇る40軒の「湯の川温泉郷」がある。

 湯の川温泉は北海道の「登別温泉」「定山渓温泉」と並ぶ、道内有数の温泉郷だ。

湯は透明の含炭酸食塩泉で神経痛、リユウマチによく効くといわれている。

 函館空港からバスで6分ほど、市街地からも近く、手軽にいける温泉地として市民からも親しまれ、海産物も豊富で、シーズンにはイカ釣りの漁火が見えるなど、風情もあり、函館の奥座敷として賑わっている。

 

 

 

 

 

■湯の川温泉の起源

 ここ湯の川温泉の起源は1653年(承応2年)と言われる。

 松前藩の3代藩主の子、幼名千勝(のち、4代藩主松前高広)が医師も見放すほどの重い病気にかかり、湯治(とうじ)のため温泉を探させたところ、発見されたのが湯の川温泉だ。

 

 1868年(明治元年)の箱館戦争で負傷者の治療を務めた医師高松凌雲(たかまつ りょううん)は「この者たちは負傷者だ。治癒(ちゆ)するまで命は助けてもらいたい。その代わりに医師の私を捕まえて処分せられよ」と願い出た。その毅然とした態度に薩摩藩隊長の山下喜次郎は「あなたがいなくては負傷者も困るでしょう」と言って、病院の門前に取り調べ済みの印をつけて兵を引き上げたという逸話も残っている。
 

■浴場の開始

 福井県越前の農業・田中藤右衛門の二男として生まれた藤助は1863年(文久3年)知人に伴われて箱館に渡った。同地の商人石崎傳七のところに奉公すること4年、呉服商石川喜八の養子となり、姓を田中から石川に代え、家業に専念し店を大きくする。1883年(明治15年)、住まいのある恵比須町に銭湯を開き、函館の陸軍守備隊のご用達(ようたし)となる。

 藤助はたまたま守備隊の用で湯川村を訪れた際に湯気があるのを発見。同村の各所を掘削し、1885(明治18)ボーリングを試み、初めて同地鮫川で110度近い温泉を掘り当てる。翌年毎分140リットルの温泉が出、浴場を開いた。

 

 その泉質は主にナトリウム・カルシウム塩化物泉(食塩泉)で、保温性に優れ、冷え性などに効く。優しい肌触りが特徴だ。

 以降、藤助は函館商業会議所議員、消防組頭等の役に励み、養父・喜八の没後、住まいを湯の川に移し、温泉の経脈を研究しながら穏やかな老後を楽しむ。

 時が過ぎ、1898(明治29)、東川町・湯の川間に函館馬車鉄道が開通。1913(大正2)に馬車鉄道が路面電車に替わる。

 大正657日、石川藤助71歳で逝去する。

 藤吉死亡の翌年の1918(大正7)には日本初の専用自動車道路が大森浜沿いに開通。函館市街からの交通網が整備され、大いに賑わうこととなった。

 彼、石川藤吉こそ、湯の川温泉の生みの親である。

 

今も、潮騒(しおさい)と漁火(いさりび)が旅情をかきたててくれる。

 

母校「函館ラ・サール学園」

 我が家のある元町、基坂(もといざか)を下ると末広町の電停だ。函館ドックがある弁天町までの電車と、ここ末広町から折り返し始発する電車があった。5系統である。(今でもあるそうだ)

当時は、弁天からくる電車か末広町始発のいずれかに乗ることができた。終点の「湯の川」電停までは所用時間約40分程である。

函館ラ・サール中・高校正門

 

 電車は末広町を出発すると、十字街~区役所前~函館駅前まで行き、右折して松風町で左折し、新川町~堀川町~千代台~五稜郭で右折。そこからは分岐することなく、杉並町~柏木町~深堀町~駒場車庫前~湯の川温泉~終点湯の川の各電停を走る。

「湯の川」の電停から産業道路より1本右手の道沿いの砂利道を13分ほど歩くと、わが母校函館ラ・サール高校(男子校)が左手に見えてくる。

 昔はスズランの花が咲き誇る丘、戦時中は畑、戦後は住宅地へと変わり、今や学校や住宅が立ち並ぶ郊外のニュータウンへと変貌している。

 

■校名の由来

 校名は1651年、フランス生まれの近代教育の先駆者、聖ジャン・バディスト・ド・ラ・サール(16511719)の名に由来する。

 聖ラ・サールは1950年(昭和25年)515日、世界教育者の保護聖人に列せられた。

  聖ジャン・バディスト・ド・ラ・サール

 

■開校までのいきさつ

 1932年(昭和7年)函館桟橋に4人のブラザー(修士)が降り立った。当時のドミニコ会函館教区管区長の要請により、函館における布教活動、ラ・サール会として男子学校設立の意向があったようだ。

 4人の修道士は宮前町(現亀田八幡宮・北海道教育大函館校の南側、函館税務署北側に広がる)に仮の修院を営み、1934(昭和9)校地24千坪を購入する。

 しかし、函館が要塞地帯であり、軍部の介入があったこと、重ねて悪いことに、1934年(昭和9年)に同市で函館大火が発生すると、同市での学校設立を断念して一行は本州に渡り、仙台に外国語学校を設立した。

 

 以降、1936(昭和11)ニ・ニ六事件、1937(昭和12)日中戦争、1941(昭和16)真珠湾攻撃などの戦火が続き、時が過ぎ去っていく。

 1950年(昭和25年)ラ・サール高校(鹿児島ラ・サールまたは谷山ラ・サールともよばれている)を開校した後、再び函館市での開校を目指した。

 

 1955年(昭和30年)ローマのラ・サール会本部は、函館市よりラ・サール会に対し男子校設立の要望が出され、その高校誘致申請書に基づき、函館ラ・サール高等学校設立を決定。翌7月、カナダ管区本部(モントリオール)において、学校設立を許可される。

 初代校長は1932年(昭和7年)函館桟橋に降り立った4人のブラザーの一人、マルシアン・ローラン(ローラン・ルエル)修道士であった。既に28年の際月が過ぎ、63歳になっていた。

 

 学校設立に関し道庁に「学校設立申請書」を提出した際、ローラン初代校長は校歌として、歴史的な「聖ラ・サール賛歌」を提案したが、「聖ラ・サール賛歌」は姉妹校である鹿児島のラ・サールの校歌であったため、同一のものでは認可できないとされ、新しい校歌が作られることとなった。
 

 作詞 安藤元雄、作曲 ローラン・ルエル(初代校長)

(校歌1番)

 日吉の丘よりのぞむ /宇賀の浦の波ひかり

掲げよ朝な夕なに/ いそしむ学び舎の

若い理想の旗/ 集え友よ/ 我らここに

目指すは永遠(とわ)の真理

ラ・サール学園 /ラ・サール学園 


 

 ラ・サール教職会は85カ国1,200余の学校を経営し、日本では鹿児島と函館の2校だけである。

 

函館山を望む