ウオーターフロント

旧桟橋(きゅうさんばし)

我が家の東隣りにある「船魂神社」から日和坂(ひよりざか)を下ると旧桟橋だ。

船魂神社は1135年、融通念仏宗開祖の良忍上人がこの地に着き、「ここは神霊の宿る処」と里人に伝え海上安全を祈念して奉られたのが起源だ。

北海道で最古の神社といわれ、源義経を津軽海峡の海難から助け、北海道の地へ導いたという伝説が残っている。古来より船の守護神、海上安全、大漁祈願、開運導きの神様として崇敬されてきた。小学生の頃は、境内で缶蹴りや野球に興じたものだ。

 

下りきった先にあるこの旧桟橋とは、函館港内に碇泊した船舶から艀(はしけ)に乗り換えて上陸した桟橋のことで、内地(本州)から船で来た人たちが第一歩を印した所だ。

明治43年、函館駅に連絡船用の本桟橋ができたため旧桟橋と呼称されたが、北洋漁業が全盛のころの送り込み、切り上げ(出港・帰港)の時の賑わいは大変なものであった。

 旧桟橋

 

函館は北洋漁業の基地であった

終戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) は日本漁船の遠洋操業を禁止していたが、1952年(昭和27年)になるとアメリカ・カナダとの間で漁業条約が締結され、太平洋の北東部海域でのサケ・マス漁の再開が決定された。

 

北洋漁業

北洋漁業とは、釧路・根室・函館、八戸、宮古、気仙沼・石巻・塩釜、小名浜、魚津などの大規模な漁港を母港とし、船内に缶詰加工冷凍装置を持つ大型の母船と漁を行う数十隻の漁船(独航船)などで構成された船団により、北洋の現場海域で数ヶ月留まって漁業を行うものである。

北洋の現場で水揚げされた海産物は母船内で加工され、帰港時にまとめて出荷された。

 

■昭和27年から29年当時出漁船団編成

漁業の再開を受け、同年51日、母船式サケ・マス漁業3船団が、北太平洋アリューシャン海域に向け函館港を出港した。時に、私が満4歳の時である。『さけ・ます独航船のあゆみ』によると、出漁船団編成は母船3隻、調査船7隻、独航船50隻合わせ60隻の編成であった。
 当時、函館市にとって昭和初期以来の「北洋漁業の再開」とあって、街には「祝北洋漁業再開」のアーチが飾られ、花電車が走るなど再開に湧きたっていた。

 

 出港当日、独航船が離れる西浜岸壁(函館ドック~大町~緑の島間=西埠頭)では、多数の大漁旗がはためき、見送りの人びとの波で埋め尽くされていた。

 函館帰港の第1船となったのは日魯漁業所属の「第一あけぼの丸」で、昭和27612日午後3時に函館港に帰岸した。荷はただちに定温倉庫に搬入され、落札された品物の一部は617日に市内のデパートや魚屋の店頭に姿を現し、一切れ20円のサケ切身が飛ぶように売れたという。

昭和29年になると、出漁船団編成は母船7隻、調査船45隻、独航船160隻合わせ212隻の大編成となった。時に私は満6歳であった。

更に翌昭和30年には母船14隻、独航船334隻、調査船72隻、合計420隻という前年の倍となる、空前の大規模船団の出漁だ。

 

出漁許可がでると、花火の合図で独航船が順番に出港し、続いて母船が出港する。見送り用の五色のテープをなびかせ、ボリューム一杯に音楽を鳴らして防波堤を我先に出てゆく光景は、子供の目にも壮観であった。

この頃になると、父母の故郷である新潟・網代浜から、父母の兄弟や親せきが船乗りとして出稼ぎに来るようになった。

母の兄が来たときは、酒好きの兄の手元に一升瓶が置かれ、チビリチビリ嬉しそうに晩酌していた姿を思い出す。

 

北洋漁業基地からの凋落

しかし、かつては北洋漁業に必要な人、物、金など一切を集めて漁場に送り込み、北洋サケ・マスを一手に売りさばいて「北洋漁業の策源地(物資の補給などの活動を行う後方基地)」の名を馳せた函館の役割は下記のような理由から著しく縮小し、北洋出漁時の母船と独航船の「集結地」、あるいは出漁を見送るための「万歳基地」と呼ばれるようになったのである。

 

     缶詰商品などは、直接横浜などの輸出港に揚げるほうが有利。また、本州に出荷する場合、青函航路の運賃が割高となり、販売戦略上、大量に消費される東京、横浜などに直接運んだ方が有利であること。

     1973年(昭和48年)には第1次石油危機が発生し、漁船の燃料費が高騰。加えて、米ソ両国より入漁料の支払いを求められたため、北洋漁業の採算性は悪化、大量の離職者が発生。また、サケ・マスの母川国主義を提唱するアメリカが自国の漁業専管水域について200海里(370.4km)に拡大すると発表。ソ連も追従。

     オホーツク海での全面禁漁などに続いて、1988年(昭和63年)にはアメリカ合衆国の200海里内での操業が不可能となったこと。

 

かくして北洋のサケ・マスは、函館を素通りして、そのまま東京などの大都市に送られてしまい、函館には、おもに独航船が持ち帰った乗組員の土産魚とベコ(隠し魚)が陸揚げされるにすぎなかった。かくして、幼いころの北洋漁業の原風景は遠い思い出の中にしか住むことができなくなってしまった。

 

ベイはこだて、金森倉庫群

旧桟橋から港に沿って函館駅方面に歩くと、六棟の赤レンガが見えてくる。金森倉庫群だ。

金森(かねもり)赤レンガ倉庫の歴史は、大分県出身の実業家、初代・渡邉熊四郎が1869年(明治2年)に金森洋物店を開店したのがきっかけ。その後、1887年(明治20年)に洋物店事業の中で倉庫の必要性から営業倉庫業を開始。業務を拡大、ビヤホールなどを展開するも、創業者の死去や火災、技術の進歩による輸送の発展から倉庫業は縮小される。

一方で倉庫のレンガ造り建物の方が注目されるようになり、1988年(昭和63年)にそれぞれ内部改造され、ビヤホール、ショッピング街、ホールに利用され総合複合施設に生まれ変わって、古い建物の再活用の走りとなった。

 

「ベイはこだて」は、倉庫の間の掘割に、レンガの建物を映し出してムード満点だ。

 

赤レンガ造り

金森倉庫群や旧函館郵便局は赤レンガ造りだ。

函館でのレンガ造りは、明治5年と早く、上磯(かみいそ)、矢不来(やふらい)天満宮裏手に製造所が創設され、茂辺地(もへじ)の粘土とへ戸切地(へきりち)の砂を原料として製造されたと記録に残されている。

 明治のロマンと平成の感性がクロスオーバーし、ヤングエリアとして人気急上昇のスポットである。

 

西部地区は坂の多い町

100万年前、海底火山の噴出物が基礎になり、その後の噴火により隆起・沈下を繰り返して大きな島(函館山)として出現。函館山と向いの渡島半島との間に土砂が堆積して砂州ができ、約5,000年前に渡島半島と陸続きの陸繋島(りくけいとう)となった。

函館市街はこの平坦な砂州の上にあるが、舟見町、元町など西部地区の町並みは麓近くまで迫っていて、急な坂を形成している。

 

明治時代から幾度となく大火が街を襲った。特に1907年(明治40年)825日の大火では 焼失戸数8,977戸、1934年(昭和9年)321日の大火では、焼失戸数 10,176戸 、死亡者数2,054名など多くの人と家屋を失った。

その経験から、函館の坂は道幅も広く、真直ぐにして入り組まず、延焼を阻止しようという目的で作られている。

 

 

■坂の名称

西(函館ドック方面)から東(谷地頭方面)へ魚見坂、船見坂、千歳坂、幸坂、姿見坂、常盤坂、弥生坂、東坂、基坂、日和坂,八幡坂、大三坂・チャチャ登り、二十間坂、南部坂、谷地坂、護国神社坂、あさり坂、青柳坂など、曰(いわ)くありげな坂が岸壁から函館山山麓に向かい走っている。
 

*ルート記載の左・右表示は港から函館山に向かって登時の位置を示しています。

■弥生坂(やよいざか)

ルート:旧西警庁舎後(右手)・大町マリンクラブ(左手)~弥生坂消化器内科クリニック(左手)~函館市立弥生小学校(左手)~道営住宅愛宕団地D―72=旧愛宕中学校(右手)~函館聖マリア教会(右手)~泰安の郷舟海(右手)

距離は720メートルほどあり、函館山山麓にある主要な坂では最長だ。

私の母校は、弥生坂に面した弥生小学校、愛宕中学校である。愛宕中学校は1977年(昭和52年)船見中と統合し函館市立西中学校となった。従って、愛宕中学の校舎は、今はない。
 

■基坂(もといざか)

ルート:海上自衛隊函館基地隊~元町観光駐車場(左手)~旧イギリス領事館(左手)~元町公園(箱館奉行所跡)

函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、坂下に里数を計る元標が建てられていたので「基坂」といった。坂の上は箱館奉行所があった中心地だ。我が家はすぐ近くにある。

 

■八幡坂 (はちまんざか)

ルート:はこだて海鮮市場(函館西波止場)~ラッキーピエロベイエリア本店を左に見て~エスイーシー電算センタービル(左手)~ロシア極東連邦総合大学函館校(右手)~正面函館西高。

かつて「チャーミーグリーン」のCMで、年配の夫婦が手をつなぎながらスキップするシーンのロケ地として評判となる。私が18歳までは、ロシア極東連邦総合大学函館校は白百合学園中・高の校舎があった。1980年 (昭和55年)4月山の手新校舎へ移転する。

 

■二十間坂 (にじゅっけんざか)

ルート:函館国際ホテル~明治館~バス通りまで上り、左手側に五島軒~突き当たる右手前に東本願寺。

1879(明治12)年の大火後、防火帯として整備され、道幅が二十間(約36メートル)あるところから命名。函館山要塞に備える大砲を搬送するのに利用されたそうだ。
 

■南部坂(なんぶざか)

ルート:地域交流まちづくりセンター(右手)・アクロス十字街(左手)~竹田病院(右手)~函館山ロープウェイ(左手)

坂名は、江戸幕府が蝦夷地を直轄していたころに、南部藩の陣屋があったことに由来。跡地はロープウェイ利用者専用駐車場の下にあり、岩手県南部会が建立した碑が残されている。また、現在の地域交流まちづくりセンターが旧丸井今井百貨店函館支店の建物だったことから、「丸井の坂」の名でも親しまれていた。元町に住んでいた頃に一番近いデパートであった。1969(昭和44)年五稜郭に移転。

 

函館山要塞

函館山は13の山々(御殿山・薬師山・つつじ山・汐見山・八幡山・水元山・鞍掛山・地蔵山・入江山・エゾダテ山・観音山・牛の背山・千畳敷)からなっていて、その総称として函館山と呼ばれている。

 

津軽海峡に突き出しているので、昔から異国船を監視する重要な場所であった。山頂までロープウェイで3分、麓から歩いても約1時間で登れる。

 

函館要塞は1896年(明治29年)頃から「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事=敵に函館湾を利用させない」を目的に要塞設置が計画され、1897年(明治30年)11月函館要塞砲兵大隊が編成され、千畳敷砲台、御殿山第一砲台(1898年:明治316月起工)、御殿山第二砲台(同年9月起工)、薬師山砲台(同年6月起工)及び立侍保塁で構成された。

1916年(大正5年)には御殿山第一砲台及び薬師山砲台が廃止され、昭和に入り守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首岬砲台及び大間崎砲台を完成させて、1927年(昭和2年)名称を津軽要塞と変える。これらの戦力増強よって津軽海峡の封鎖が可能となった。

 

身近な函館山だが、一般市民が立ち入ることができるようになったのは、1946年(昭和21)年からで、1896年(明治29年)以来、砲台などを備えた軍事要塞があったため、立入はもちろん、撮影や模写も禁止。地図や写真から函館山が消されている時期が50年ほど続いた。函館山ロープウェイ山頂駅・展望台はその御殿山第一砲台の上に建てられている。

 

 私が中学生頃になると、津軽海峡に面する函館山の裏側にある千畳敷のスキー場(リフトや食堂などのスキー場施設はない)に通い、転んで長靴の中に雪が入ってグショグショニなると、登山道や函館山を巡るバス道をスキーで滑りながら帰ってきたものである。

 また、函館山に分け入り、営林署の巡回員の目を盗み、栗や山ブドウ取りをしたことも懐かしい。

 

立待岬・谷地頭

函館市では西は外人墓地・旧ロシア領事館から元町を通り、東(太平洋側)はロープ―ウェイ山麓駅、函館公園、立待岬に至る、約5キロのコースを史跡散策コースとして、夜間のライトアップ化に努めている。この散策コースの東端が立待岬だ。

 

立待岬は函館山の南端に突き出た岬で、津軽海峡をはさんで下北・津軽半島を望むビューポイントだ。海抜約30mの断崖がそそり立つ。

「立待」という名は、アイヌ語の「ピウス」(岩の上で魚を待ち伏せして、ヤスで獲る場所)といわれている。

 

「おれは死ぬるときは函館に行って死ぬ」

放浪の天才詩人、石川啄木は函館の友への書簡で記したという。岬に通じる坂道には、啄木一族の墓が建っている。

 

東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

 

この啄木を見出したのが宮崎郁雨(いくう)。啄木の号を付けたのが与謝野鉄幹。

郁雨の歌碑は啄木一族の墓と並び、与謝野鉄幹・晶子夫婦の歌碑は立待岬の突端に進む左側の岩に建てられている。

また、宝来町には、「明日は」「明日は」と言いながら、「今日」という一日を無駄にすごしたら、その人は「明日」もまたむなしく過ごすにちがいありません。(『愛と結婚の思索』より)と読んだ函館が生んだ亀井勝一郎。「酒は涙か溜息か」で作詞家となった高橋粂太郎の碑も建ち、訪れる人の絶えない文芸の地となっている。

 

歩き疲れたら谷地頭温泉だ。1953(昭和28)年に開業した函館市営谷地頭温泉が前身で、2013(平成25)年に民営化され、リニューアルオープン。朝の6時から開いている。一度に6百人も入れるスケールは驚きである。

 

大門・駅前

「そこのお兄ちゃん!カニおくんないかい。ほれ、ちょっと持ってみなさいよ。ずっしり重いっしょ」

函館の一日は午前三時、朝市の賑わいから始まる。大正七年の物価騰貴時に調整策として開場されたのが始まりだ。平成30年時点で、1万坪(3ヘクタール)に約590店舗が店を開き、昔から、売っていないものは、人間と棺桶と墓石と言われている。

 

かつて、北洋漁業の基地として栄え、今なお旬の味覚と笑顔に満ち溢れ、訪れる人たちを温かく迎えてくれる。

 

駅前から松風町一帯を大門と呼ぶ。昔ここに遊郭の大きな門があったからだと伝えられている。寿司屋、郷土料理、居酒屋が並ぶ。

なかでも旨くて安いので知られるのが函館の寿司。昭和初期の北洋漁業が盛んな頃、東京から職人を引き抜いた名残りと言われている。

 

東京にある民間シンクタンク「ブランド総合研究所」が2070代の男女約3万人から有効回答を得て発表した2018年の市区町村別の魅力度アンケートで、北海道函館市が2年ぶり5度目の1位となった。調査では7割以上の人が「魅力的」と回答したという。

 

わが故郷函館!いつまでも魅力的な街であってほしいものである。