青函連絡船
「ボ~~~ッ」汽笛が函館山に木霊(こだま)し町々に響く。
連絡船が出航を知らせる「長音一声の音」。ワン・ロング・ブロウである。
以前、津軽海峡は北の大地に立つ者、北の大地を去る者たちの心の国境であった。
函館山の麓、元町の高台にある実家の玄関を開けると連絡船が通って行くのがよく見える。プラタナスの巨木が並木道を作り、人の手のひらのような葉陰から、まるでミズスマシのように連絡船が動き出す。
そもそも、津軽海峡を渡る連絡船は青森から北海道に向かう移民船であった。
そのためか、大正2年までは青森に管理局が置かれていたが、以降函館に置かれるようになった。
大雪丸
■連絡船の定期航路化
函館と青森を結ぶ青函連絡船が『定期航路』として初めて就航したのは、北海道開拓使による官船「弘明丸(ぐみょうまる)」209トンが最初で、明治6年(1873)のことである。 各航路10日に一度の運航だったそうだが、時を同じくして民営による『定期航路』も開設されている。
明治41年(1908)3月7日になると国鉄による青函航路が開設され、比羅夫丸(ひらふまる)1,480トン(乗客1等22名,2等52名,3等254名の合計328名)が就航。1日2往復となる。同年4月4日には田村丸が就航し、二船二往復となり、両船ともタービン機関を採用し、航海時間4時間であったという。以来、青函連絡船は全船タービン機関を装備することとなった。
■車両渡船の登場
大正13年(1924)5月21日には3,460トンの翔鳳丸(しょうほうまる)が就航。乗員895人、積載車両15トン型25両の貨車も積んで津軽海峡を渡る車両渡船(とせん)の豪華客船の登場である。
余談だが、函館には明治43年まで、青森には大正13年まで岸壁に船を横付けする設備がなく、船は沖に停泊し、1,2等客は小蒸気船、3等客はハシケを利用し上下船したそうである。
■洞爺丸型連絡船の登場
昭和22年11月21日になると、洞爺丸(3,898t)が4本の煙突という威風堂々とした勇姿で登場。航海時間4時間30分。旅客定員は1等44人、2等255人、3等829人計1,128人、運航定員(乗組員)120名。貨車積載能力は18両であった。上部遊歩甲板のほか下部遊歩甲板を設け、左右両舷(げん)を回廊とし、各舷に72個の舷窓が付けられてあった。
3年後の昭和25年10月18日には日本で初のレーダーを装備した貨客船となった。
翌23年5月1日羊蹄丸(3,896t)、同8月27日摩周丸(3,782t))、同11月27日大雪丸(3,886t))が客貨船として就航し、23年の暮れまでに既に就航していた6隻と合わせ14隻の陣容となった。これら世代の連絡船を『洞爺丸型』と呼んだ。
私が父母に連れられて、生まれ故郷新潟から函館に移り住んだ時に利用したのが、この洞爺丸型連絡船である。
摩周丸
洞爺丸台風―洞爺丸座礁沈没!
実は、青函連絡船にはとても悲しい歴史があった。
昭和29年9月26日乗組員111名、乗客1,220名~1,203名(17名の相違あり)を乗せた洞爺丸は「台風5415号・マリー」のため22時23分座礁沈没。(54とは1954年のことで、15は15番目の台風のことで、マリーとは米軍がつけた名前)死者・行方不明者あわせて1,155人に及ぶ日本海難史上最大の惨事のことである。私は当時6歳11カ月であった。
当日午後2時40分発の4便洞爺丸は岸壁にて『テケミ』(天候警戒運航見合わせ)・・・天候の「テ」、警戒の「ケ」、見合わせの「ミ」)中であったが、18時39分出航した。
19時53分、国鉄函館海岸局より無線電報「遅れ4便洞爺丸、函館港防波堤灯台より3百度、8.5ケーブル(1,600メートル)に投錨、テケミ」が発信された。
函館港は函館山側(南)に西防波堤・赤灯台が、七重浜側(北)に北防波堤・青灯台がある。洞爺丸は両防波堤を越えた湾外にテケミすることとなった。
しかし、事態は急変しつつあった。
21時25分洞爺丸から発電機が止まりつつあり、突風55メートルと受電。
同30分には左舷発電機故障、左舷エンジン不良、ビルジ(船底に溜(たま)った汚水)びき困難と受電あり。
函館桟橋での計測数値は出航時の風速は秒速15~20メートル(最大30メートル)20時には28~38メートル(最大54メートル)となっていた。
22時1分かろうじて船位を保ちつつあるも、同7分主力エンジン不良となる。同12分両エンジン不良のため漂流中との受電あり。
同27分、防波堤青灯台(七重浜側)より267度にあり、8ケーブル(1,500メートル)風速18メートル、突風28メートル。波8(波の高さ9~14メートルで非常に荒れている状態)と受電。因みに最高指数は波9で波の高さ14メートル以上で異常な状態。函館港は南西に開口しているので南西からの巨浪とうねりをまともに受けたようである。
22時26分座礁せりと受電あり。
洞爺丸は台風が来ているのになぜ出航したのか?
中央気象台の予想通り、進行速度110キロの台風が、
①午後5時ころ函館上空に達し、大風の目も観測されたこと。
②洞爺丸の気圧計はそれ以降上昇を示し、台風の通過を示したこと。
③船長は台風の眼を確認してから1時間出航を待ったこと。
これらの事象を確認し、十分航海可能とみての出航であったといわれている。
なぜ洞爺丸だけが出航したのか?
それは、台風通過後の運航再開1番船だったからである。
この洞爺丸台風では、函館沖で停泊していた「北見丸(乗員70名死亡)」・「十勝丸(乗員59名死亡)」が転覆、「日高丸(乗員56名死亡)」が浸水、「第十一青函丸(乗員90名死亡)」が船体破断で沈没。あわせて1,430名が犠牲となってしまった。
海事史上最大の犠牲者例 (魚雷または機雷事故によるもの■、それ以外■)
■1945年(昭和20年)1月30日、ドイツのヴィルヘルム・グストロフ号、ゴーテンハーフェン(現ポーランドのグディニャ)の港から東プロイセンの避難民や傷病兵を乗せて出航した後にソ連海軍の潜水艦に撃沈され、海事史上最大の犠牲者を出した。
公式記録では、乗組員173名、第2潜水艦訓練部隊の海軍軍人918名、海軍女性補助員373名、傷病兵162名、難民4,424名の計6,050名が乗船していたとされ、更に、少なくとも2,000人以上の難民を急遽乗船させたので、実際に何人が乗船していたのかは不明であるとする。
■1948年(昭和23年)12月4日、上海の北約80kmの黄浦江河口付近で客船「江亜」号が機雷に接触し沈没。2,750人~3,920人が死亡。
■2002年(平成14年)9月26日、セネガル政府所有のフェリー「ジョラ号」が、ガンビア沖で沈没。この事故で少なくとも1,863人が死亡。
■1987年(昭和62年)12月20日、フィリピン客船「ドニャ・パス号」(2,640トン、旧「ひめゆり丸」)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター(640トン)」が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。少なくとも1,576人以上死亡。
■1912年(明治45年)4月14日、イギリス船籍客船「タイタニック」が処女航海中、氷山に衝突して沈没。1,517人が死亡。
■1865年(慶応元年)4月27日、米ミシシッピ川貨客船「サルタナ号」はボイラーと冷却システムに深刻な問題を抱えながら航行していたが、結果第三ボイラーが爆発し、爆死・焼死・溺死 1,450人以上。
■1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で台風15号(洞爺丸台風)の暴風により転覆・沈没。乗員乗客1,155名が死亡。
洞爺丸台風では、同様に函館沖で停泊していた「北見丸(乗員70名死亡)」・「十勝丸(乗員59名死亡)」が転覆、「日高丸(乗員56名死亡)」が浸水、「第十一青函丸(乗員90名死亡)」が船体破断で沈没。あわせて1,430名が犠牲。
■2014年(平成26年)4月16日、韓国・珍島沖で旅客船「セウォル号」(6,825トン、乗客乗員数476人)が沈没。6月9日の時点で292人の死亡が確認。
これらの事例を待つまでもなく、洞爺丸台風の犠牲者がいかに多かったか、日本において最大級の海難事故であった。
十和田丸
津軽丸型連絡船の登場
昭和39年になると、昭和22年から23年にかけて就航した前述の洞爺丸型客貨船は次々と18年の耐用年数を迎え、国鉄は、新鋭客貨船7隻の就航を決定する。
新造第1船の津軽丸(8,274トン)が就航。寝台20名、グリーン席の指定席96名、グリーン席の自由席244名、普通席970名、合計1,330名を乗せ、貨車48両を積載。機器類は自動化されて運航定員(乗組員)は44名に大幅削減された。速力は21.57ノットである。所要時間は3時間50分に短縮された。
同年第2船の八甲田丸(8,314トン)、第3船の松前丸(8,313トン)が就航し、昭和40年5月16日には第4船の大雪丸(8,299トン)、同年6月30日第5船の摩周丸(8,237トン)、同年8月5日第6船の洋蹄丸(8,311トン)が続々と就航。昭和41年11月1日には第7船の十和田丸(8,335トン)が就航した。これらを『津軽丸型』と呼んだ。
昭和41年、私は大学受験で東京に向かうために、これら津軽丸型の最新鋭の連絡船に乗ることとなった。以来、東京から函館に帰省、函館から東京へと帰るとき大変お世話になった。
青函連絡船の廃止時時点の運賃・料金
昭和63年廃止時の運賃・料金は普通運賃2,000円(こどもは半額)で、寝台席上下段とも2,400円、グリーン車:座席指定 1,600円、同自由席1,100円だと記憶している。函館から乗船の際は桟橋から船に向かって、或は船から桟橋に向かって、色とりどりのテープが投げられ、別れを惜しむ光景があった。
因みに、当時の大卒初任給(公務員)は15.700円 、高卒初任給(公務員)は11.000円
牛乳:16円 、かけそば:40円 、ラーメン:50円 、喫茶店(コーヒー):60円、
銭湯:23円、 週刊誌:40円 、新聞購読料:450円、 映画館:250円の時代である。
桟橋マラソン
青森発着の「はつかり」「白鳥」「みちのく」の特別急行、「はくつる」「ゆうづる」、夜行急行の「八甲田」「十和田」、函館発着の特急「おおぞら」、「北斗」「北海」「おおとり」急行「宗谷」「ニセコ」など青函連絡船との接続を重視したダイヤグラムが組まれていた。
列車が青森駅や函館駅に到着した際、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の「自由席」を確保しようとする乗客でプラットホームや跨線橋(こせんきょう)がごった返し、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれていた。
上京する際、交通費を少しでも節約したい私は青森発の列車の自由席を確保するため、この桟橋マラソンに参加したものである。
:費用の関係で連絡船、列車を乗り継いでの12時間ほどの旅であった。函館に帰郷する際は青森駅に到着すると、「後は連絡船だけ」とホッとしたものである。
時代の変遷―航空機の出現
1961年(昭和36年)函館空港開港(滑走路1,200m)。1971年(昭和46年) 滑走路延(2,000m)、ターミナルビル(2代目)完成、ジェット機が就航。1978年(昭和53年) 滑走路延長(2,500m)
昭和56年度に入ると東京~札幌間の旅客の95%、東京~函館間の90%が航空機を選ぶ時代となっていた。
昭和62年4月1日青函連絡船はJR北海道の経営となる。JR北海道は津軽海峡線(鉄道)の営業開始に伴い、昭和63年3月13日を以って青函連絡船の最終便とする決定がなされ、慣れ親しんだ津軽海峡連絡船は姿を消すことになってしまった。
「津軽海峡は日本海それとも太平洋?」についてはアメーバーの私のブログを参照願います。
目をつむると、いまでも、ワン・ロング・ブロウが聞こえてきそうだ。