メリル・ストリープさんが、映画「プラダを着た悪魔」のエピソードについて話していました。

 

コミカルでオシャレな作品ですが、撮影中はとても憂鬱だったそうです。

それは「メソッドとかいうもの」をやってしまったから。

 

撮影中のメリルはカメラの回っていないところでもミランダになりきって過ごしていた。メリル曰く「本当にひどい経験だった。私はトレーラーの中でひとりで惨めに過ごしていた。外でみんなが楽しく笑っているのが聞こえた」。あの厳しいミランダがスタッフや他のキャストと雑談したり冗談を言ったりするなんてありえない。だからメリルも待ち時間や休み時間はひとりで過ごしていたそう。
「ものすごく憂鬱な気持ちになった。『これが上に立つものが支払わなくてはいけない代償なんだ』って思っていた」。さらに冗談めかして「もうこの作品以降、メソッドとかいうものはやっていないわ!」とも。(Yahooニュースより)
 
「プラダを着た悪魔」は映画自体は面白かったけど、メリル・ストリープには何かちょっと違和感あったのは、つまりそう言うことだったのね。
 
 

プロの演技に「メソッド」はいらない

「メソッド」とは元々が「スタニスラフスキーシステム」から繋がるリー・ストラスバーグさんが作った「演技方法」ですが、もはやそれは魑魅魍魎が入り交じり、まさに「混沌」という言葉がふさわしい感じになってます。
 
 
だいたい「メソッド」って言葉自体が、「方法、やり方」って意味だからそれもややこしいね。
 
 
「メソッド」やってる人も、今やいったい何がメソッドなのかよく分かってないんじゃないかな?
私的に強引に定義づけると……
 
その役が作品世界の中で注意しているもの”以外”を作品に持ち込んで、観客置き去りの見当違いの激しい演技を行う方法。
 
これがメソッドだ!もちろん異論反論いろいろあると思うけど、メソッドを何年かやったあと、仕事現場で使えるリアルで自然な演技に目覚めた自分の素直な感想です。
 
「メソッド」的なもの使うと、病的に劇的にはなるけど、他のキャストそっちのけで絡みづらいし、作品からも浮いてしまう。なんか「勝手に泣いてろ」みたようになる感じ。
 
「レミゼラブル」のファンテーヌ役のアン・ハサウェイもそんな感じだったね。役に関係ない所で”自分自身の”感情が高ぶってる感じ。あそこは「役」として「コゼットの母」として泣かないといけないのに……ちょっと酷かったね。
見てて正直ちょっと引いちゃった。「自分は泣かずに客を泣かせろ」って誰か言って上げたら良かったのにね。
 
 
極論すれば「メソッド」とは、観客を置き去りにした「自己満足」なのだ。
 
 
日本でも、「悪人」って映画で、妻夫木聡さんが「カットの間も役でいる」ってのやってたね。あれも正に観客を置き去りにした自己満足。あれははたして「メソッド」か知らんけど。
 
 
僕たち観客は「物語」を見たいんだ!その物語の中で揺れ動く人物を見たいんだ。自分のおぞましい感情をさらけ出そうと頑張ってる”俳優”を見たいわけじゃない!
 
そこを第一に考えておかないと、こういうメソッドなんちゃらの罠に引っかかっちゃって「素晴らしい演技」からどんどんかけ離れちゃうことになる。自分が観客として観て「素晴らしい演技」だと思うもの。すべての俳優はそこを目指すべきで、どこかの”権威”が言うことを信じる必要ないんだ。
 
ちなみにその「結果」としての素晴らしい演技を分析したのが、コーチの発見した「7つの基本フォーム」だ。
こんなの今まで存在しなかった正に画期的だよね。もちろんメソッド習いにいっても何が「正解」なのかなんて教えてくれない。ただ「この方法が正統メソッドだ」とかなんとかかんとか……。結果じゃなく方法(メソッド)重視ってのが正に迷走の極致だね。
 
 
とにかく、メソッド的なものも”すべて”含め、「メソッドアクティング」には関わらないのが吉。撮影現場で誰もそんなことやってないからね。いや、ごくたまに周りから浮きまくりの「やっちゃってる人」は見かけることはあるけど。
 
……って言っても、売れてる俳優も、俳優志望の人も、レベルに関わらずみんな一度は「メソッド系」に手を出したくなっちゃうんだよなあ。
売れてる人はまあともかく、これから世に出て行こうという人は、変なレッスン行くより何よりまず現場で学ぶべし。「メソッド」なんて必要ない。まったく邪魔で無意味なものだってすぐわかるから。