「なにがそれを所有している?」それを考える前に、前回のおさらい

  • 芸術とはコミュニケーションの最も純粋な形である
  • コミュニケーションとは「共有」すること
  • 所有とは「の」をつけること
どんな考えでも、どんな経験や知識でも、「の」を付けるだけでその人の「所有」になる。
所有そのものには、お金も時間も全くいらないんだ。
 
そうなんだけど、ふつうはとても難しい。
 

「の」を付けるのはかんたんだけど難しい。

  • 「”私の”夢は、宇宙移住です」
  • 「"私の"量子超越性についての研究が完成すれば、世界が変わる」
  • 「"私の"趣味はナメクジをあつめること」
  • 「千葉生まれだけど、中国は"私の"国だ」
  • 「”私の”子供は6人いる。
 
自分が理解できたり、信じることができたり、手が届くと思えないと、普通は「の」を付けることはできないし、したくもない。
 
そう、つまり、そのハードルをあっさり飛び越えて、どんなものにも即座に「の」を付ける仕事こそが「演技」の仕事で、それができる人が「俳優」なんだね。
 
さて、ちょっとそれは、いまはおいといて前回の質問、
 
なにがそれを所有している?
 
 
「そんなの決まってるよ『人間』じゃん!『自分』とか『あの人』とかの」
と言うかもしれない。じゃあ「自分」ってなに?
 

なにがそれを所有している?

たとえば、服を触って「この服、誰の?」と聞くと、「自分の」とか答える。
そう、着ている「服」は、もちろん「君の」であって「君」自身じゃない。
 
髪の毛触って「これはなに?」と聞くと「私の髪の毛」と答える。
それももちろん、「君」自身じゃない。
 
じゃあ、「手」は?「足」は?「頭」は?……
すべて、「私の」と答える。仮にもしそれが失われたとしても、「私」そのものが無くなったわけじゃない。そう「身体」もあなたのただの「所有物」だ。
 
じゃあ「私」ってなに?
 
 

「私」は3mmから3cmぐらいの玉

結論から言うと、「自分自身」とは、眉間の奥3cmぐらいのところにある3mmから3cmぐらいの玉なんだ。
 
これは、そこに物理的になにかがあるというんじゃなくて、みんな自分や相手のことをそう”考えて”いるんだ。意識するしないに関わらず、君もそこから世界を見ているし、相手に話し掛ける時は相手のその「玉」を意識して話しているでしょ?
 
 
 
 
 
 
そうそれはつまり「魂」とか「意識」とか「自我」とか言われるもの。それがいろんなものを「所有」しているんだね。
 
ちなみに、上記の素敵なモデルさん達は、すべて実在しない人物、つまりAIによって描かれた人物なんだ。(「AI人物素材」)これまでもこういうのはたくさんあったけど、このようにまるでそこに「意識」まであるかのように描けるようになったのが画期的なんだね。
 

 

魂の大きさには限界がない

その魂(いまは仮にこういう名前で呼ぶ)が、なにかを見つけそれに「の」をつけたら、そこに魂は伸びて広がっていく。ふだんは小さな玉なんだけど、それが身体からはみ出てどんどん大きくなっていくんだ。それが「オーラ」とか「気」とか言われるもの。
 
「オーラ」とか「気」とかは、「その人から出てくるもの」ではなく「その人そのものの一部」なんだね。
 
自分の肉体、家族、チーム、社会、世界、知識、夢、視点……そういうものを「自分の」と感じるたびに、その人はそれまでと違う存在になるんだ。
 
つまり、人は「所有」すればするほどどんどん大きな存在になっていき、「所有できない」と限界を感じるたびにどんどんちっぽけな存在になって行く。
 
 

「所有」するから、あらゆる感情が生まれる

素晴らしいものが所有できると「喜び」を感じ、所有できるものが見つからないと「退屈」し、所有してると思ってるものを奪われそうになると「怒り」を感じ、奪われる予感がすると「恐怖」を感じ、失われると「悲しみ」を感じる。
 
そう、すべてのの感情はこの「所有」という概念から生まれてくるんだ。つまり「の」をつけた瞬間、それはその人の一部分となり、それをめぐるありとあらゆる感情が沸き起こるということ。
 
「自分の」クルマが傷つけられたら、まるで自分が傷つけられたかのように怒り、「自分の」友達が主役を勝ち取ったら、まるで自分が取ったかのように喜ぶ。それは「自分の一部」だからなんだ。
 
逆に、なんにも所有してなければ、それを失う恐れも怒りも、喜びも悲しみも存在しない。
 
ちっぽけな「玉」である君自身には「意図」はあるが「感情」はない。
それが「ボディ」「家族」「仕事」「友達」「経験」「夢」「お金」「プライド」……様々なものを所有していくにつれ「大きな存在」となり、そのすべてがいまの「君」を形作っているんだ。守るべきもの、戦うべきもの、愛すべきもの、求めるべきものが生まれてきて、そして「感情」というものが必要になってくるんだ。
 

人生は「の」をたくさん持つゲーム

僕たちの人生の目的こそが、多くのコミュニケーションをして、この「所有」を増やすこと。
それはもちろん「財産」とか「名声」のことではなく「の」をつけるということ。
 
「物」や「お金」にももちろん「の」は付けられるけど、「経験」や「想い出」、「友情」や「愛情」、様々な「感情」や「快感」なども人は「の」をつけて「所有」することができる。
 
その視点から見れば、多くの人とふれあいいろんな感情を「共有」した人、罪を犯したり辛い想い出をたくさん「経験」しても立ち直った人などは「人生の勝利者」と言える。そう考えると、よく言われる「人生の価値は物質的なものだけで決まるのではない!」ということがホントに真実なんだって思えるね。
 
まあちょっとオカルト宗教チックな話になっちゃったけど、コーチはこういったことは信じる信じないではなく、演技の仕事をする上で「役立つ」からこそ理解しろと言ってる。つまり、自分の「心と身体」を道具として演じる「演技」という仕事の根本的な知識ということだね。
 
くれぐれも、何かのアヤシイ宗教の話ではないから、お間違いのないように。(まあ仏教的な話ではあるのだけど)
 
 
さて、ではこの話をどのように具体的に演技に役立てていけばいいか?
次回、「所有」から「共有(コミュニケーション)」、そして「芸術」、「演技」と戻っていくことで考えていこう。