放浪者の狂想曲
ボヘミアン
ラプソディ
〈イントロ〉
間もなく「今年」の任務を終え、「去年/昨年」になろうとしている2018(平成30)年。一年を仕舞う大晦日の今日は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を通して感じたことをシリトリ話のように書き連ねました。
メディアで「第3次クイーンブーム」と謳われる昨今、音楽は特定の世代の専有物ではないことを再確認するとともに、僕が幼い頃から抱いていたモヤモヤも書いてみました。
それでも音楽は、それでも放浪者の狂想曲は、
時代と寝ることなく、続いていきます。
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幼い頃、
ファミリーカー「イプサム」で流れていた音楽はQueenだった。
まだ達郎(さん)も、チューリップも、サザンも、福山マシャも知らなかった幼稚園か小学校低学年。
「サミット! サミット!
HEY! HEY! HEY!」
歌詞は疎か、
タイトルさえ知らなかった「Don't Stop Me Now」。
間奏前の
〝Don't Stop Me! Don't Stop Me!
HEY! HEY! HEY!〟
ませたクソガキだったのか、
〝Don't Stop Me! Don't Stop Me!〟が
〝サミット! サミット!〟に聴こえた幼少の記憶が今も鮮明にある。
「サミット? 先進国首脳会議?」
と、勝手に脳内で小泉首相やブッシュ大統領が曲に合わせて踊っている姿を想像……。
👉🏻ちなみに、数年後に小泉首相が披露したのは「グローリー、グローリー、ハレルーヤー」とエルビスでした。
👉🏻「Killer Queen」でケネディやフルシチョフの名前が出てきたことも、当時の空耳を誘発させた一因……
僕のQueenの出会いは、
そんな一人空耳アワードだった。
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そんなこんなもあって、Queenは「世代を問わない音楽の代表」という認識は揺るぎなかった。
幼稚園・小学生・中高・大学……と
受動的ながら、ゆっくりと染み込んでいたサウンド。
その歌詞の和訳や背景を知ったのは、
Queenの音楽に出逢ってから20年近く経った、
先日観た「ボヘミアン・ラプソディ」だった。
⚜️
フレディの人生を通しながら、
喜び・哀しみ・羨望・苦悩・快楽・葛藤……。
一つひとつの感情や主張が凝縮されて、
Queenの楽曲が仕上がっていくことが窺えるドラマ。
聴き馴染んだ一曲一曲に、
初めて知る背景や思いが重なることで、
「新しい」感動が音楽に泡のように弾けていく。
時を経て、初めて歌詞の意味を知ることのできる贅沢。
音楽を紐解いていくことで、
自分の中で一曲一曲がアップデートできるなんて幸せな時代だ。
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勝手な解釈を走らせれば、
哀しみや苦しみが言葉へと翻訳されて
そうして文字に起こされてきた歌詞たちが、
フレディ自身の歌声によって、
どこか明るく? 力強く? 完成されていくのを知る度、
日本の流行り歌を朗らかに歌い上げた
坂本九ちゃんに似たものを感じた。
「上を向いて歩こう」「涙くんさよなら」
「サヨナラ東京」……
哀愁が漂う歌詞を牧歌的に歌える様が、
僕の中でフレディと重なった。
……だからといって、
その個人的な気付きに落としどころはないけども、
人々が哀しみの淵に流れ着いたときに求める音楽は、
そうした自らの感情や原風景に上手にリンクした歌詞と、明るさをコーティングさせるメロディと唄声なのかもしれない。
「Don't Stop Me Now」も
「涙くんさよなら」も。
静かにフェードインして
静かにフェードアウトしていく。
曲の中央にあるメロディの明るさを浮上させる効果のある、
そんな余韻や寄添いに、少なくとも僕は愛おしさを感じている。
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|音楽は世代の
|専有物じゃない
まとまりのないシリトリ話のブログになってしまうのは、
音楽が、たくさんの感情や思いの肩を優しく叩くから……!
今回、一番備忘録として書きたかったのは、
音楽は特定の世代の専有物ではないということ。
劇場公開から間もなく2ヶ月。
「ボヘミアン・ラプソディ」は
動員数500万人、興行収入70億円を突破したという。
その度にメディアでは「意外性」というタグ付けで、
「なぜ若い世代に受ける?」といった文句でボヘミアン現象を紹介してくれたが、正直若者からすれば余計なお世話です。
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|山下達郎は、
|センブリ茶じゃない!
小学校高学年の頃から、
好きなミュージシャンは? と聴かれれば
「山下達郎さん!」と答えていた僕。
大人ならまだしも、同じクラスの子からも、
決まって返ってくる答えは「渋いね!」だった。
あまりにも口裏合わせたかのように
同じ感想を返されるので、
「山」と言えば「川」
「達郎」と言えば「渋い」
が合言葉なのかと疑ったくらい。
もちろん多くの人は、
「渋いね」と答えてあげれば、新井くんは特別感を抱いてくれるだろう! というサービスで選んだフレーズだったのだろう。
でも、当時の僕にとって
「渋い」という形容詞から連想されるのは
「センブリ茶」と「舘ひろし」くらい。
大好きな達郎さんが、多くの人にとっては「渋い」というイメージでまとめられている衝撃に困惑したのを覚えている。
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それから。
時たま、某知恵袋や某tubeの投稿を覗くと
「自分まだ中学生なんですけど、
山下達郎ハマってるのって変ですかね?」
「18歳ですが、達郎さん大好きです」
みたいな文面を見ると、
「わ! 出たよ、出たよ」と申し訳ないですが、ものっそい嫌気が……。
もちろん、そうした発言をするな!
と言いたいわけではなく。
そんなに変わったことじゃないんだよ!
なんで、「達郎聴いてる若い人は変わってるよね?」みたいな虚像を聴き手のあなたが自ら作り上げてしまうの?
という素直な疑問。
「山下達郎が好きな自分って、皆と違っていて、変わっていて好き」みたいな言説となってしまうのが、個人的に好きでないという話でした……。
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そんなこんなあって。
今回の「第3次クイーンブーム」が波及を続けても、若い人がクイーンを聴くことに対して別に意外性を飾る必要性はないんだと思います。
本来の「クイーン世代」と呼ばれる皆様だって、
当時は立派に「若者」やっていたわけなのですから。
あの時の「若者」に受けて、
今の「若者」に受けないなんてことはないんです。
フレディ・マーキュリーが亡くなったのは
1991年11月24日。
僕は93年の生まれなので、彼の音楽は知っていても、同じ時代は生きていない、人生は交わってはいないわけです。
むしろ、同じ時代を生きている方の音楽を浴びることは贅沢な機会だと、ありがたがらないと。
人生の終わりが自ら分かっているからこそ、
結晶のように凝縮された彼の音楽。
フレディの苦難や幸福といったドラマが歌に乗って、彼の人生そのものが聴く人の心を響かせる。
生命の煌めきがメロディに溢れているからこそ、
時代を超えたとしても、僕らの心に電流が走るものがありました。
歌詞の意味も知らずに聴いていた音楽。
ドラマを通じながら、
歌詞の和訳を与えられる幸福。
真っ暗になったスクリーンに
静かに流れ出た「Don't Stop Me Now」に、
たくさんの涙だって流れ出ました。
乾いた涙を頬に宿したまま、
音楽は一つの世代の専有物じゃないと、
改めて気づかされる映画でした。
突っ走りたくなるような、
漲るものがある心の元気/希望。
心にある、この準備万端のボムが、
いつまでも平和な爆弾でありますように。
いつだって僕らの「放浪者の狂想曲」は、
Don't Stop Me Now! だ。
平成30(2018)年12月31日
新井 輝